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by hinaseno
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カテゴリ:鉄道( 6 )



川本三郎さんの東京の町歩き本の中でもとりわけ好きなのが『東京の空の下、今日も町歩き』。この本で東京のことをかなり学びました。その中に武蔵新田が出てくるエッセイがあります。タイトルは「『池上』『千鳥』『蒲田』慎ましく懐かしい、水郷の町の面影」。もともとは雑誌『東京人』に「東京泊まり歩き」というタイトルで連載されていたもの。雑誌掲載時のもとには単行本にはない写真が載っているのでもちろん掲載されたときの『東京人』(2002年3月号)も持っています。

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「東京泊まり歩き」という言葉の通り、川本さんは池上線の千鳥町駅に近い観月という旅館に泊まって一泊二日で池上線と目蒲線に囲まれたこのエリアのあちこちを歩かれているんですね。もちろん武蔵新田も。

こんな言葉なんかを読むとにこにこしてしまいます。


 通りから通りへと気ままに歩いているとすぐに線路にぶつかる。一瞬、これは池上線だったか目蒲線だったかわからなくなる。
 通りを歩いているとよく踏切りの音が聞こえてくるのも面白い。

ちなみに3年前ほど前に東京に行ったとき、まず泊まる場所として考えたのが川本さんが泊まられた観月でした。でも、すでにその旅館は廃業していて…。まあ、それはいいか。

それほどにこのエッセイは僕に大きな影響を与えていて本当に何度も何度も読みました。おかげでそこに書かれているいくつものことが頭の中に入り込んでいます。その中の一つが慶大グラウンドのことでした。ちょっとそれについて書かれた部分を引用します。


 (池上線の)池上線の次が千鳥町駅。”ローカル私鉄”は駅と駅の間隔が短い。この駅は大正12年開設当時は、光明寺の参道にあたるので「光明寺前駅」と名付けられたが、昭和のはじめ慶應のグラウンドが作られたのをきっかけに「慶大グラウンド前」と改められた。
 グラウンドは千鳥駅町と目蒲線の武蔵新田駅のあいだ、千鳥小学校のあたりにあった。当時は野球といえばプロ野球ではなく六大学野球。特に慶應は人気があった。


慶應義塾写真データベースに武蔵新田にあった野球場の写真が3枚ほど掲載されていました。グラウンドは新田運動場、野球場は新田野球場と呼ばれていたようですね。

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写真に添えられた記事には大正13年に運動場用地として購入、昭和11年から14年にかけて売却したと書かれています。売却を決定したのは当時、慶應の塾長だった小泉信三とのことです。


さて、僕がなぜこの武蔵新田にあった慶應の野球場のことをよく覚えていたかというと(川本さんがエッセイで書かれていることを何から何まで覚えておくなんてできません)、先ほど引用した部分の後に書かれていたことが印象的だったから。それはまた次回に。


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by hinaseno | 2017-01-05 11:54 | 鉄道 | Comments(0)

昨日、亀井勝一郎のことに触れたときに、書き忘れたことを1つ。
小山清の「落穂拾ひ」の題名をつけたのが亀井勝一郎でした。ちなみに「朴歯の下駄」の題名をつけたのは井伏鱒二。 小山清の師である太宰治が題名をつけたものもあるかもしれません。
そういえば昨日、ウィキペディアで亀井勝一郎のことを少し調べていたら函館の生まれであることがわかりました。

さて、その函館から函館本線に乗って順に駅を辿ってみることにします。
函館、五稜郭、桔梗、大中山、七飯、渡島大野、仁山、そして大沼。
函館本線に乗ったならば、まず、絶対にここで下車することになります。なぜならばそこにひろがっているのはこんな風景だから。
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向うに見えるのが駒ヶ岳。手前に広がるのが大沼という湖。函館から函館本線に乗った人がまず最初に感動するのがこの風景。
『日本地理大系 北海道・樺太篇』に載っている俳人河東碧梧桐の「駒ヶ嶽・大沼」というエッセイはこんな文章で始まります。
 何かかう大まかな、未開的な、ぱアとした予感を抱いて、内地から渡つて来た人は、函館から汽車僅に一時間、大沼駅に下車してすぐ眼前に展開する風致の異様な結構に、先ず予感を裏切られる驚きを禁じ得ないであろう。
 仰ぐ駒ヶ嶽は、鷹の爪のような先鋭な、真に磨きしました刃先の鋭さで突つ立つてゐる。内地の山多しと雖も、これ程ズバ抜けて、きつかりした感じに対比し得るものはない。

函館本線はこの山の見え始めた大沼駅から駒ヶ岳を囲むように2つの路線に分かれます。
最初に作られた西側の山間を通る路線(大沼回り線)。で、その後に砂原回りという駒ヶ岳の東側の海沿いを通る路線が作られます。2つの路線は駒ヶ岳をぐるっと一周通り越した森駅で合流します。
堀淳一『北海道 地図の中の鉄路』によると、 駒ヶ岳は見る方角からいろいろと形を変えるようです。でも、いろいろな写真を見る限り、やはり大沼駅のあたりから見た姿が最も美しい。

さて、海沿いを通る砂原回りができたのが昭和20年。
小山清も夕張に行ったときに函館から函館本線に乗っています。夕張に行ったのは昭和22年1月。小山さんはおそらく開業して間もない砂原回り線に乗ったはず。
堀淳一さんによると、この線から見える駒ヶ岳の変化は大沼回りよりも「もっともっとおもしろく、豊かなのが」とのこと。
刻々と形を変える駒ヶ岳の姿、そして右手に広がる内浦湾(噴火湾とも呼ばれます)の海。想像するだけでたまらないものがあります。
宮沢賢治は大正12(1923)年に樺太への行き帰りに、この函館本線に乗っていますが、汽車の中で「駒ヶ岳」と「噴火湾」という二つの詩を書いています。

小山清が函館本線に乗っていたときのことを書いたのは「夕張行」という随筆だけのようです。以前少し触れましたが、前回省略した部分も含めて改めて引用します。函館から長万部までの小山清が見た風景です。
翌朝、函館に着いてまたすぐ汽車に乗つた。寂しい海岸べりを、長時間汽車は走つた。私はそこにとり残されたやうにある小屋を見かけて、その小屋に母と自分が二人だけで住む生活のことを思つた。これは私の癖のやうなものであつた。母の死後私はよく母と二人で暮らす生活のことを思つた。それは、風呂を使つていゐと軒端から月の見えるのどかな山家のくらしであつたり、また反対に都会の隅つこで乞食小屋のやうなところに住む極貧の生活であつたりした。私の想像の中では、そんな生活の中でさへも、母は生前彼女がさうしたやうに変ることなく息子の私に仕へてくれるのであつた。母は私が数へ年の二十のときに死んだが、私はそれまで少しも母のうへを思いやることが出来なかつた。

駒ヶ岳のことは全く触れられていません。右手に広がる海のことも。彼が目を留めたのは「寂しい海岸べり」にあった「とり残されたやうにある小屋」。そして亡くなった母との生活のことを考える。
それが小山さんの「癖のやうなもの」。
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by hinaseno | 2015-03-13 11:10 | 鉄道 | Comments(0)

函館本線のことを考える日々。特に函館から小樽にかけての区間。
先日書評で見つけて気になっていた堀淳一『北海道 地図の中の鉄路』を購入。現在と過去の地図をもとに(微妙な路線変更が結構あるんですね)函館本線全線を旅してきました。もちろん地図を使ってのバーチャルな旅。ときどき、沿線から見える風景をネットで確認したりしながら。布谷文夫さんの故郷であるはずの「蘭越」ももちろん出てきます。ああ行ってみたい。

ところで先週の土曜日と日曜日に日本映画専門チャンネルで「岩井俊二映画祭presentsマイリトル映画祭」が放送されました。全部見るわけにもいかないのでもちろん録画。DVDで持っている作品もいくつかありますが、観たこともない作品もあって観るのがとっても楽しみです。ひと月くらいはどっぷりと岩井さんの作品の世界にはまりこみそうです。
岩井俊二さんの作品との出会いは『Love Letter』でした。ビデオ、それからDVDとソフトを変えつつ、これまで何回観たかわかりません。好きなシーンはいくつも。この図書室のシーンのなんと素敵なこと。
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先日、3年ぶりくらいに『Love Letter』を観たらびっくり。なんと函館本線が映っていたんですね。中山美穂と豊川悦司が、小樽から中山美穂のフィアンセであった(男の)藤井樹が亡くなった山(おやま「雄山or御山」と呼ばれる山)に向かうシーン。
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途中、電車が停車してホームがちらっと映ります。このとき豊川悦司は「あと一駅やな」と一言。
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看板を観ると「らんしま(蘭島)」。そして向かっている方向にある次の駅は「よいち(余市)」。「おやま」は余市の近くにあったんですね。この日のブログでも触れたように、余市は布谷さんが通っていた高校のあった町。
ただ、後でいろいろ調べたら、この「おやま」は架空の山でした。

さて、上の函館本線の電車が走っているシーン、『北海道 地図の中の鉄路』に載っている2万5千分の1の地図を見ると、小樽の次の塩谷駅近くの場所のような気がします。塩谷の次が蘭島、そして次が余市。
なんだか函館本線の函館から小樽までの間の駅名(全部で50ほど)を全部覚えてしまいそうです。
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by hinaseno | 2015-03-10 14:51 | 鉄道 | Comments(0)

 昨夜、寝る前に、うれしい知らせがありました。それはこの日書いたブログに関することなのですが、また改めて書きます。

a0285828_11295614.jpg 西大寺鉄道の廃線跡を探るために、先日の連休の日曜日に久しぶりに西大寺に行ってきました。まず、とりあえずは『ALWAYS 三丁目の夕日』の舞台になった「五福通り」へ。会陽の行なわれる西大寺観音院のすぐそばです。おそらくは映画のロケ地として知ったと思われる観光客とおぼしき人が数人歩いていたほかは、人通りはほとんどありませんでした。この写真のあたりを吉岡秀隆演じる茶川さんが淳之介君の乗った車を追いかけて走ってるんですね。あの映画の最も感動的な場面ですね。

 で、それから昨日写真を貼った軽便鉄道の車両が置かれてある、当時の西大寺鉄道の始発駅があった場所、現在は両備バスのターミナルに行きました。
 さて、路線は、と思って地図を確認。『鉄道廃線跡を歩く』に載っていた地図を25000分の1の地図に書き写していたものをもっていたのですが、どうもおかしい。西大寺駅の場所も地図と違う。いきなりどう行っていいのかわからなくて困っていたら、たまたま通りがかったバスの運転手さんが路線のあった場所を教えてくれました。今はその場所が自転車と歩行者専用の道となってまっすぐ伸びていることがわかりました。
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a0285828_11305921.jpg でも、なんでこの道幅3mくらいの道が地図に載っていないんだろうと不思議に思いつつ西に向かい、とりあえずは、あの砂川の上を軽便鉄道が走っている場所までやってきました。ここがその場所です。写真集に載っていた写真は砂川の河原に降りて撮ったもののようですが、水量が多いのと河原近くに降りて行く土手にかなり木が生えていたために、同じ場所から写真を撮ることはできませんでした。もちろん当時の橋脚もありませんでした。

 ここからまっすぐ歩いて行けば、まだ当時の駅舎が残っている大多羅の駅があった場所に行けるとは思いましたが、ちょっと距離がありそうなので、一旦引き返して車に乗ってその場所に向かいました。でも、地図に書いた場所にはそれらしきものは何もありません。かなり辺りを歩き回ったり、人にきいたりもしたのですが、結局見つけることができませんでした。

 あとでわかったことですが、あの『鉄道廃線跡を歩く』に載っていた路線は、全部は確認していないのですが、どうやら 25000 分の1の地図で1㎝くらい、つまり実際の距離で250mほど南に線が引かれていたんですね。25000分の1の地図には大多羅あたりまではきちんと元の路線があった現在の自転車道が載っているんです。大多羅の駅も僕の探した場所よりも250mくらい北にあったはず。

 それにしても戻ってからネットで調べてわかったのですが、西大寺鉄道の路線跡を歩いた人の多いことと言ったら。もうかなり細かく歩き尽くされているという感じです。僕が今更歩いて何かを発見できるようなものではなさそうです。

 でも、大多羅の駅のあった場所の近辺を歩いていて、あるものを発見する手がかりとなる場所を見つけることができました。それは僕にとっては、廃線跡や、残っている駅舎を見つける以上に心ときめく発見でした。それはまた次回に。
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by hinaseno | 2013-02-19 11:35 | 鉄道 | Comments(1)

 さて、今はなき西大寺鉄道の話。書きたいことがありすぎて何から書いていいやらです。

 創立は1910年、開業したのが翌1911年。ほぼ100年前。ということで2009年から2011年にかけて100周年のいろんなイベントが行われていたようです。興味深いイベントもあったみたいですが、ちょっと知るのが遅かったようです。

 西大寺鉄道が走っていたのは現在の岡山市の南東部の全長11.4kmの距離。最初は西大寺から山陽本線の東岡山駅(前にも触れた百閒の「西大寺駅」のこと)と西大寺まででしたが、その後しだいに延長されて市内の後楽園まで結ばれました。
 そういえば一昨日、西大寺にある観音院というお寺で奇祭として有名な裸祭りが行われました。正式には会陽と呼ばれるものですね。西大寺鉄道が作られた目的の1つは、この祭りを見物する人たちを運ぶためでもあったようです。会陽の当日には列車の屋根まで人が乗っかっていたみたいですね。今では考えられませんが、でも、大丈夫(でもなかったかもしれませんが)、そんなにスピードが出たわけではないんですね。まさにトボトボという表現が似合うスピード。
 なぜトボトボかというと、線路のレールの幅が通常のものよりは狭いんですね。通常の在来線のレールの幅は1067ミリ(3フィート6インチ)。それより狭い軌間のものをナローゲージと呼ばれるそうです。そしてそのナローな軌間のレールの上を走っていたものを軽便鉄道と呼びます。こういうのを知ったのはつい先日。後で調べたら、僕が読んでいたいろんな本に軽便の名前が出ていたのですが。

 そういえば、川本三郎さんの『そして、人生はつづく』の「遠い声」に出てきた線路を走っていたのも、どうやら軽便鉄道のようです。

 ちなみに通常の軽便鉄道の軌間は762ミリ(2フィート6インチ)だそうですが、西大寺鉄道はちょっと広くて914ミリ(ちょうど3フィート)で、その軌間のものは九州には
多かったそうですが、本州ではめずらしかったものだったみたいです。

 ここに西大寺鉄道の走っている姿を捉えた映像があります。トボトボ感がたまりません。先日、ラジオデイズで平川克美さんと対談された関川夏央さんも軽便鉄道が好きみたいで、たまたま先日手に入れた雑誌に軽便鉄道について書かれた文章が載っていたのですが、その中に「けなげ」とか「愚直」という言葉が使われていてまさにその通りだと思いました。

 ところで、僕は最初、「軽便」を「けいびん」と読んでいたのですが、正しい読み方は「けいべん」。岡山の人たちは西大寺鉄道のことを「けえべん」と、親しみを込めて読んでいたようです。全国各地の軽便鉄道のいろんな写真を見ましたが、僕は西大寺鉄道が最も素敵なように思いました。地元のひいき目、と言われればそれまでですが。

 とにかく今、僕は「軽便」に恋をしています。
 で、大瀧さんの「A面で恋をして」の替え歌で「軽便で恋をして」というタイトルの詞を作成中。昨年出た『ナイアガラ・トライアングルVOL.2』には「A面で恋をして」の純カラがボーナスでついていますので、そのカラオケにあわせて歌いながら詞を考えている日々。いそがしいのに何やってんだか、です。完成したら発表します。

 先日、西大寺鉄道の始発駅のあった場所に行ってきたのですが、そこには昔西大寺鉄道で実際に走っていた「キハ7号と呼ばれるの気動車が置かれていました。写真を貼っておきます。
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by hinaseno | 2013-02-18 11:30 | 鉄道 | Comments(0)

 2日間ほど実家に戻っていました。旭川に近い岡山市内に家族を連れて行く用事があったので、あえて旭川東岸からこの日のブログで写真を貼った中島が見える場所を通って行きました。家族を連れてそこに行くわけにはいきませんでしたから、川越しに眺めるだけでしたが、まだ十分風情が残っているように思いました。実はそのあたりを見るのははじめて。また今度、改めて行ってみようと思いました。

 今回の帰省のメインは線路跡探し。例によって長い話になりそうですが、今日はそのきっかけを少しだけ。
 "その鉄道"を知ったのは先月に実家に戻ったときのことでした。実家に到着したとき、僕が着くのとほぼ同時に、めったに来ることのない、岡山市で書店を営んでいる叔父がたまたま来ていて、で、たまたま出たばかりの写真集を持ってきていました。岡山市の昔と今の写真を集めた本。昔と言っても、川本さんがよく使われる言葉で言えば”近過去”。叔父は僕がそういう時期の岡山に興味を持っているなんて全く知りません。本がたまたま出たばかりで、岡山市に編入された実家のある町の写真もいくつか載っていたんで父親に見せようと思って持ってきていたんですね。
 父親と叔父といっしょにぱらぱらと見ていたら面白そうでしたが、すぐに出かける用事がありましたので、叔父にその本を置いておいてもらうことをお願いして外出。戻ってみたら父親はその本を買っていました。
 で、ぱらぱらと見ていて目に飛び込んできたのが前回貼った鉄道の写真でした。
 僕はSLにも電車にも特に興味は持ってはいないのですが、その列車の写真は強烈に惹きつけられてしまうものがありました。西大寺鉄道という名前の鉄道。西大寺という地名はこのブログでも何度も書きましたね。
 驚いたのは列車が渡っている鉄橋がかかっている川。
 砂川。
 この写真に写っている場所からそんなに遠くない上流で、子供の頃何度も遊んだ川でした。
 実家からそんなに遠くないところに、こんなかわいい列車が走っていたなんてうれしくなってしまいました。聞けば、父親も母親も乗ったことがあるとのこと。で、それからこの鉄道を調べる日々が始まりました。

 たまたま、といえば川本さんの『そして、人生はつづく』の例の「遠い声」という話を紹介したこの日の文章で、最後に川本さんの『はるかな本、遠い絵』のことに触れました。10年ほど前に出た本で、ときどきは読み返していたのですが、前回ブログに写真を貼ろうと思って、久しぶりにぱらぱらとめくっていたら「鉄道廃線の旅」というエッセイがあって、読んでいたら宮崎俊三編著『鉄道廃線跡を歩く』という本のことが紹介されていました。当時はまだⅠとⅡが出たばかり。川本さんは「これはちょっとすごい。圧倒された」と書いています。で、「この本は実に面白い。二冊だけでなく、三冊も四冊も出して欲しい」
a0285828_10314089.jpg川本さんの願い通り宮崎俊三編著『鉄道廃線跡を歩く』はその後たくさん出ることになります。そして川本さんが出して欲しいと言われた三冊めにこの西大寺鉄道のことが詳しく乗っていることがわかりました。鉄道が走っていた路線を書いた正確な地図も載っていたんですね。出会うときには出会うものです。たまたまばかりなのですが。

 ここで話を少し別のことに。これも"たまたま"聴いた"たまたま"の話。
 前に録音してほとんど聴いていなかった大瀧さんがゲストによばれているラジオ番組を昨日聴いていたら、興味深い会話がなされていました。
 1973年に、なぜ福生へ行ったかという話。この日のブログでどうしてだろうと僕も書きましたね。ぜひ聞いてみたい話。
 パーソナリティの人が大瀧さんにその問いを向けたら、大瀧さんはまず一言「いい質問!」と答えられています。そしてこう言葉を続けます。

 世の中に「どうしてなんだろう」ということが多いでしょう、質問するときに。でも、答えの大半は「たまたま」。僕の場合は「全部たまたま、すべからく」。


 引っ越さなければならないなとぼんやり思っていた頃に、たまたま奥さんとドライブしていたときに、福生の米軍基地の近くで、たまたま英語でBarberとかSaloonと書かれた建物が並ぶ町並みを見つけて、まるで西部劇に出てくる風景のように思っていたら、その近くにやはりたまたま"House For Rent"の家を見つけたとのことです。で、即決したとのこと。
 風水でも何でもありませんでした。
 でも、さっきリンクした日のブログを読んでいたら、これも"たまたま"なのですが、僕は最後に「たまたま」を連発していました。大瀧さんにからむ話って"たまたま"だらけなんですね。僕がここに書いていることも、考えたら、"全部たまたま"の話ばかりです。
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by hinaseno | 2013-02-13 10:34 | 鉄道 | Comments(0)