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by hinaseno
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カテゴリ:映画( 89 )



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昨日『東京物語』の「撮影日程表」の昭和28年6月23日から24日にかけての記載から、小津は東京から尾道に向かう列車の中で三石を見た可能性が極めて高いことを書きました。ただ、急行では三石が見えるのはほんの一瞬。いくら観察力が優れている小津とはいえ、それで何かを判断するにはあまりにも時間が短すぎる。
とするならば、もう一度きちんと見ようとしたはず。できれば三石駅に停車する汽車に乗って、そこで下車はできなくとも三石の町をしっかりと見ようとしたはず。

それが示されていたのが7月1日から2日にかけての記述でした。
その部分を改めて貼っておきます。
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読み取りにくい字が並んでいるのですが、間違いなくこう記載されています。
「小津監督 野田氏 倉シキ下車」

「倉シキ」というのはもちろん岡山の倉敷。そこで小津と野田高梧はスタッフといっしょに乗っていたはずの列車から途中下車しているんですね。
これにはびっくり仰天。でも、個人的には大発見。やっぱりそうだったんだということでした。
小津と野田が倉敷に下車したのは他に何かうかがい知れない理由があったのかもしれませんが、最大の理由は三石を見るためだったと思います。

ところでその前に、小津一行が尾道を出発したのは7月1日の何時頃だったかということを確認しておかなければなりません。できればこの年の時刻表があればある程度推測することができるのですが。
で、何かないかなと探していたらありました。こういうときには見つかるもんですね。

見つけたのはみすず書房から出ている『小津安二郎「東京物語」ほか』に収められた「『東京物語』監督使用台本」。
例の笠智衆が時刻表を眺めているシーンのところに、こんなメモが書かれていたんですね。

〈尾1時31発午前 大6時発午前 東16:23着〉〈尾道発15:41 大20:28 東7:20分〉

これはおそらく実際の時刻表に載っていたもので、尾道から東京に向かうときの尾道と大阪の発車時刻と東京の到着時刻を調べたものをメモしたものだろうと思います。

ただ、映画では笠智衆夫妻が尾道を出発するのはおそらく昼すぎ。香川京子さんは「五時間目ァどうせ体操ですから」駅に見送りに行くことができると語っています。午後の最初の授業のときに抜けていくということですね。
で、笠智衆は時刻表を見ながら「これぢやと大坂六時ぢやなァ」と。どうやら実際にはメモの最初に記された尾道を午前1時31分に発車し、大阪に午後6時頃到着する列車しかなかったようですが、老夫婦をそれに乗せるわけにもいかなかったので、それを午後に変えたようですね。

で、気になるのは2つめに記されたほう。おそらく小津一行が尾道を出発するときに乗ったのは、こちらの列車(おそらく急行)の可能性が高そうです。
昨日貼った時刻表を見ると尾道から三石までは急行でおよそ2時間10分ほど。それよりももう少し列車が遅かったことを考えると所要時間は2時間30分くらい。
というわけでこの列車が三石を通過するのは午後6時頃でしょうか。7月の初めであればまだ日は普通は残っていますが、三石は山あいの町なので日が暮れるのは早く、この時間にはかなり町は暗くなっているはず。しかも急行では一瞬のうちに通りすぎてしまう。
ということで小津たちが判断したのが岡山で一泊して翌朝に大阪に向かうということ。少なくとも相生くらいまでは三石駅に停車する普通列車に乗ったのではないかと思います。少しでも町をゆっくりと見るために。

ひとつだけ気になったのは三石(大阪)に近い岡山市ではなく倉敷で下車したこと。岡山に宿泊すればもう少し早い列車に乗ることができたかもしれないのに。
誰か知り合いがいたんでしょうか。

実は「倉敷」は『東京物語』に一瞬登場するんですね。映像ではなく会話の中で。
東京に到着した笠智衆夫妻に、杉村春子が子供の時に尾道の家の近所に住んでいた「お孝ちゃん」という人のことを訊ねます。それに対して東山千栄子がこう答えます。

「あゝ、お孝さんのう、あの人も不幸な人でのう、旦那さんに死にわかれて、去年の春ぢやつたかのう、子供をつれて倉敷の方へ片付いていたんぢやけえど、なんやらそこもえゝ具合にいつとらんらしいんよ」

映画を見ていたときに唐突に倉敷が出てきてびっくりしたんですが、倉敷に下車したということは、何か倉敷に縁があったのかもしれません。

いずれにしても小津と野田は倉敷に一泊。翌朝、大阪に向かい、その途中で三石の町をしっかりと見たことはまちがいありません。
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by hinaseno | 2016-04-14 14:14 | 映画 | Comments(0)

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前回書いたのは『東京物語』の「撮影日程表」をもとにしてつくりあげた想像上の物語。でも、8割、いや9割くらいは当たっているはず。ただ小津も野田高梧もなぜか二人とも中村伸郎口調になってしまいますね。

小津が三石を舞台にした映画を撮っていることを知ったときに、なんでこんな場所を映画のロケ地に選んだんだろうか、というのがそもそも『早春』という映画に関心を持った理由でした。
『東京物語』の舞台となった尾道は観光地としてそこそこ有名な町だし、なによりも小津が尊敬する志賀直哉が一時期住んでいて、『暗夜行路』の舞台のひとつにもなっていたので、小津がそこを舞台にした映画を撮ろうと思ったのはよくわかります。
でも、三石には、こんなことを言っては申しわけないけど当時も今も見るべきところがない、山あいの本当に小さな町。特に僕はさびれてしまってからの町しか知らないのでなおさら「なんで?」という気持ちを持たずにはいられませんでした。
で、考えたのは、尾道での撮影のときに列車で通りがかって、あの煙突の立ち並ぶ風景に惹かれたということでした。それしか考えられなかったので。
でも、それがこの日のブログで紹介した野田高梧の言葉で証明されたんですね。
改めてその言葉を。

「主人公が岡山県の三石に転勤させられることにしたのは、この前の『東京物語』で尾道へ出かけた時、汽車の窓から見たその町の山に囲まれた、どことなく侘びしい、耐火煉瓦生産地としての工場町風景が、その構想のラストシーンに一番ふさわしいと思えたからである」

これで積年(ってほどでもありませんが)の大きな疑問は解決。でも、まだいろいろと知りたいことはありました。いったいどういうふうにして三石を見たのかということ。つまり、下りの列車で見たのか上りの列車で見たのか、あるいはその両方なのか。

結論は前回書いた通り、おそらく尾道にやってくる下りの列車の中で一度見て、そのあと帰りの上りの列車で改めてきちんと見たのだろうと。

さて、前回書いた話は「撮影日程表」をもとにして考えたといいましたが、実はそこに記されているのはたったこれだけ。
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上が尾道でのロケハンに出発した日と尾道に到着した日のこと。下が尾道を出発した日と翌日のこと。
たったこれだけのことですが、僕にとってはここに知りたかったほぼすべてのことが含まれていました。

まずは尾道に向けて出発した昭和28年6月23日から24日にかけてのこと。多少わかりにくい書かれ方をしていますがこういうことのはず。

 大船集合スタッフのみ尾道ロケハン出発 
 小津監督野田氏 大船発21時50分

スタッフは先に出発して、小津と野田はふたりで後を追う形になったようです。
二人が乗り込んだのは大船発21時50分の列車。

「大船」というのは松竹の撮影所があった場所。東海道本線で尾道に向かうので始発はおそらく東京。
この年の時刻表があればとネットで探してみましたが、この時代の時刻表の古書価格ってめちゃくちゃ高いですね。とても手が出ません。
ちなみに『東京物語』は尾道から東京に向かう笠智衆が時刻表を見ているこのシーンから始まります(この後の空気枕の話は何度見ても笑ってしまう)。
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おそらくこれと同じ時刻表を持って小津たちは尾道のロケに向かったはず。これと同じ時刻表が手に入れば、ですが。

そういえば、と浮んだのがその『東京物語』で笠智衆と東山千栄子が東京から尾道に戻るときの東京駅でのこのシーン。
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表示板に映ったのは二人が乗ることになる東京発広島行きの急行「安芸」。発車時刻は21:00。
ちなみにこれが急行「安芸」の写真。機関車は何種類かあったようですが。
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で、ネットを調べたら3年後の昭和31年の急行「安芸」の時刻表が掲載されていました。ちょっとお借りします。
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これを見ると東京発は20:45。『東京物語』の発車時刻より15分早くなっています。で、大船発の時刻を見ると21:37。小津と野田が乗り込んだ列車より13分早い。やはり小津たちが大船で乗り込んだのは『東京物語』で笠智衆たちが乗ったのと同じ東京発21:00の急行「安芸」であることはまちがいなさそうです。
ただ、この区間だけでも3分短縮されているので、それぞれの発車時刻を単純に15分遅らせるわけにはいかないようです。

『東京物語』では東京駅で長女の志げ(杉村春子)と長男の幸一(山村聰)との間でこんな会話が交わされます。

志げ「尾道、何時に着くの?」
幸一「明日の一時三十五分だ」

上に貼った時刻表を見ると尾道到着は11:49。幸一の語った1:35というのは午後のはずなので、1時間36分早い。出発時刻が14分早いことを考えるとトータルで1時間22分早くなっています。

さて、では三石を何時頃通過しているかということ。
相生駅から三石駅までは30分くらいかかったとして昭和31年の時刻表では9:40分頃。これに出発時刻の15分と、さらに列車がもう少し遅かったことを考えれば11:20くらいかなと。この年の時刻表を調べれば一発でわかることですが。
この時刻であれば遅い朝食をとったとしても、ゆっくり車窓の風景を楽しむことができたはずですね。
とはいってもこの列車は急行なので三石駅には止まらないので、三石の町が見られるのは10秒あるかないか。ぼんやりしていると見逃してしまう可能性が高い。

でも、幸いなことに、三石の町に入る前にかなり長いトンネルがあるんですね。しばらく暗い中にいて、突然風景が開けると、だれもがその風景を眺めてしまうもの。
二人が尾道に向かうときに三石に目にとめたことは間違いありません。

これは昭和40年頃の三石の風景。手前に走っているのが山陽本線の電車。兵庫県との県境にある長いトンネルは手前側にあります。
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by hinaseno | 2016-04-13 12:11 | 映画 | Comments(0)

『早春』誕生の物語


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小津安二郎と野田高梧の二人が大船から乗りこんだのは、まさに『東京物語』の笠智衆と東山千栄子が尾道に帰るときに乗ったのと同じ時刻に東京駅を発車した夜行の急行列車「安芸」。二人はこれから一足先に出発していたスタッフを追って尾道に向かう。もちろん『東京物語』の尾道のシーンを撮影するために。

一夜が明け、二人が朝食を済ませたころ、列車は兵庫県を通過していた。
「おい、確かこのトンネルを抜けたら岡山だな」
「うん、そのはずだ。でも、長いな、このトンネル」
「おい、明かりが見えてきたぞ。どうやらトンネルを抜けるみたいだ...」
列車はトンネルを抜けて三石の町がいきなり二人の視界に入る。
「なんだ、このたくさんの煙突は」
「いったい何の工場があるんだろう」
列車は三石の駅に停車することなく、あっという間に三石の町を通りすぎて再び山の中に。
「おい、今の煙突、気になるな」
「なんて名前の町だろう」
「車掌にでも訊いてみようか」
二人はやって来た車掌に尋ねる。
「さっきの煙突がたくさん立っていた町はなんていうんだ?」
「三石です」
「三石、そうか」
「帰りにもう一回見てみるか」
「そうだな。三石か」

一週間後、尾道での撮影を終えた小津と野田はスタッフとともに次の撮影地、大阪に向かう。列車に乗ってしばらくして二人はあることを思い出す。
「おい、そういえば、あの町を見るんじゃなかったか」
「えっ?」
「三石だよ」
「ああ、そうだったな」
「このままこの列車に乗っていたら暗くて何も見えないぞ」
「そうだな。じゃあ岡山に一晩泊まって明日の朝見るとするか」
「そうしよう」
二人は大阪に向かうスタッフを汽車の中に残して倉敷で途中下車し、駅に近い旅館で一泊。

翌朝、大阪でのロケハンに合流するために、朝早い列車に乗り込んで大阪に向かう。
時刻表を見ながら二人はこんな会話を交わす。
「三石は倉敷からちょうど1時間くらいだな」
「吉永という駅の次か」
「町が見えている時間はあまりないから、見逃さないようにしないとな」

列車は旭川を渡り、さらに吉井川を渡って吉永駅を過ぎる。急に両側から山がどんどん迫ってくる。
「そろそろだぞ」
「うむ」

そして待ちに待ったその風景が突然現われる。
列車は三石駅に停車。
二人は山あいに数十本の煙突の立ち並ぶ風景に圧倒される。
「おい、どうだ、この風景。すごいな」
「ああ、これは絶対に映画に使わなくちゃな」
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by hinaseno | 2016-04-11 09:04 | 映画 | Comments(0)

小津安二郎の『東京物語』の「撮影日程表」が掲載されていたのは小津安二郎を特集した『東京人』1997年9月号。
「撮影日程表」は、小津の映画のカメラマンであった厚田雄春の遺品を集めている「東京大学厚田文庫」の一部を誌上公開したものの中にありました。1ページを使って大きく。
この号は2年ほど前に手に入れて、特にその中に掲載された川本三郎さんの「いまひとたびの『東京物語』。」を読むために何度も手に取っていたはずなのに気がつきませんでした。なんともはや。
「撮影日程表」については詳しい説明はありませんが、どうやら厚田さんが日記などに書いていたものをまとめて作ったもののようです。ただ、ネットをみる限り、この「撮影日程表」に触れている人はほとんどいないようです。
川本三郎さんもたぶんこれに触れたエッセイは書かれていないはず。どうしてだろう。

『東京人』のこの号に掲載された川本さんの文章では、最後に『東京物語』に映し出された荒川放水路に触れて、小津と永井荷風の関係について書いています。
川本さんは以前から、小津が荒川放水路に着目したのは荷風の随筆を読んだからではないかという”仮説”を持っていたそうで、その証拠として出たのが1993年に出版された『全日記 小津安二郎』だったと。これについては以前にも紹介しましたが、小津は『東京物語』の撮影に入る前に連日、荷風の『断腸亭日乗』を読んでいたんですね。
で、昭和28年6月17日の日記に、荷風が何度も歩いていた場所が登場する「バスにて 東陽公園にゆき せんきの稲荷 砂町より葛西橋に歩く」と書かれていることを指摘。川本さんの”仮説”は6月19日までの日記だけでも十分証明されています。
でも、「撮影日程表」をみると、それを強烈に裏付けるものになっていました。証拠も何も、小津が『断腸亭日乗』を見ながらロケをしていたとしか思えないような内容。
その部分がここ。
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特に日記では失われてしまっている20日の記載がすごい。
多少文字が読み取りづらいのですが、読み取れるものだけを列挙すると「千住大橋」「北千住駅」「東武堀切駅」「荒川放水路土手」「四ツ木橋」。
これらは荷風の『断腸亭日乗』に何度も登場する地名ばかり。

昨年来、荷風の『断腸亭日乗』を読み続けてきてわかったことを。
川本さんは「いまひとたびの『東京物語』。」で、小津がロケハンをした場所は、荷風が主に昭和10年に歩いた場所と書かれていましたが実際には昭和7年の1月から3月にかけて歩いた場所が中心。

荷風の『断腸亭日乗』はこの時期に書かれていたものが最もわくわくします。さらにこの時期、荷風は歩いた場所で見た風景を『日乗』に描いていました。その絵がどれも素晴らしいんですね。川本三郎さんも『きのふの東京、けふの東京』で、その時期に書かれた荒川放水路の絵を二つ表表紙と裏表紙に使っています。
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小津もきっとこれらの絵に強く惹きつけられたはず。

ちなみにかの「偶然のよろこびは期待した喜びにまさることは、わたくしばかりではなく誰も皆そうであろう」で始まる荷風の随筆の中で僕が最も好きな「元八まん」の、「元八まん」こと砂村八幡宮を発見したのもこの昭和7年1月。発見したのは砂町の仙気稲荷の近く。
6月17日にはまさにその砂町の仙気稲荷に行っています。その後に行った荒川放水路にかかる葛西橋も荷風が何度も足を運び、絵に描いている場所。荷風の随筆や『断腸亭日乗』を読んだ人間であればだれもが一度は行ってみたい所です。
ただ、小津の日記ではその後こう書かれています。
「思ハしきところなし」

どうやら思っていたような風景はすでに失われてしまっていたようです。
というわけで、2日後、今度は荒川放水路のもう少し上流の千住大橋近辺に行ってロケをします。そして、堀切駅付近の荒川放水路で撮ったのが有名なこのシーン。
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このあたりも荷風は何度も歩いています。例えば昭和7年1月18日の日記。

乗合汽船にて吾妻橋に至り東武電車にて請地曳舟玉ノ井などいふ停留場を過ぎ堀切に下車す、往年綾瀬の川口より菖蒲園に行きし時歩みし処なり、電車停留場は荒川放水路の土手下に在り、堀切橋といふ橋かゝりて行人絡繹たるさま小松川の土手と相似たり、橋の欄干に昭和六年九月竣成と識したればこのあたりの交通開けたるは半歳前のことなり、見渡すかぎり枯蘆の茫々と茂りたる間に白帆の一二片動きもやらず浮べるを見る、両岸とも人家の屋根は高き堤防に遮られて見えず、暮靄蒼茫たるが中に電車の電柱工場の烟突の立てるのみ


あるいは昭和7年1月22日の日記。

今日は清洲橋の袂より南千住行の乗合自働車に乗りぬ、浅草橋駒形を過ぎ田原町辺より千束町に出で吉原大門前を過ぐ、日本堤は取除かれて平坦なる道路となれり、小塚原の石地蔵は依然としてもとの處に在り、こゝにて金町通の乗合自動車に乗替へ、千住大橋を渡り旧街道を東に折れ堤に沿ひて堀切橋に至る、枯蘆の景色を見むとて放水路の堤上を歩み行くに、日は早くも暮れて黄昏の月中空に輝き出でたり、陰暦十二月の十五夜なるべし、枯蘆の茂り稍まばらなる間の水たまりに、円き月の影盃を浮べたるが如くうつりしさま絵にもかゝれぬ眺めなり、四木橋の影近く見ゆるあたりより堤を下れば寺嶋町の陋巷なり


昭和28年7月19日にロケをした場所がずらりと並んでいます。

これほどまでに荷風の『断腸亭日乗』の影響を強く受けいていた小津が、荷風(と同時に、やはり小津が敬愛した谷崎潤一郎も)のいた岡山を意識しないはずがありません。
意識していたからこそ三石を「発見」した。これが僕の仮説。

そして「撮影日程表」にはそれをはっきりとうかがわせることが書かれていました。
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by hinaseno | 2016-04-10 14:45 | 映画 | Comments(0)

すごいものを発見してしまいました。興奮して何から書いていいやらです。

その前に。
いつもブログは、前日あたりから空いた時間を利用して下書き用のファイルにちょこちょこと書いていって、最後に少し時間のあるときに最終チェックをして写真や音源を貼りつけてアップしています。
昨日も一旦は書き終えていましたが、最終チェックをするまでに時間が空いてしまったので、そのときにある雑誌をパラパラとめくっていたらそれを発見してしまったんですね。
小津安二郎の『東京物語』の「撮影日程表」というもの。
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『東京物語』のロケ地などが克明に記載されていて、びっくりすることだらけ。それを見ていたら7月2日つながりに気がついたので、最後に少し書き足しました。三石のことについてはまた改めて詳しく書こうと思っています。

『東京物語』は昭和28年6月から7月にかけて撮影されていたのですが、残念なことに 小津の日記は6月19日までしか残っていなくて、その年の残りの部分を記した日記は焼失してしまっているんですね。次なる作品の『早春』のことを知る上でも、もっとも貴重な部分が失われていたわけです。
でも、その重要な時期の詳細な日々の記録が書かれているものがあったんですね。そこにはこのブログで過去に書いた推測(当て推量)を証明するものがいくつも。

この「撮影日程表」は小津映画の研究者にとっては常識に属する資料なのかもしれませんが、そこに記載されたことの中には僕しか気づき得ないものもあると思っています。その一番が三石に関することですが、それはまた改めてということで、最初に紹介したいのはこの部分。「撮影日程表」の最後の日に行なわれたロケのこと。
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なぜか三日間、間が空いて7月8日にロケが行われています。
この中にこんな文字が。
「目蒲線」

『東京物語』に目蒲線が映るシーンはありません。
でも、僕はこの日のブログで『東京物語』に、あの『生れてはみたけれど』に映し出されているはずの「目蒲線」が登場していることを予想していました。
原節子さん演じる紀子のアパートのあった場所は蒲田がある大田区のあたりで、アパートで聴かれる電車の音は池上線か目蒲線の電車の走る音だろうと。
どうやらこれが当たっていたようです。

それを裏付けるのがこの7月8日にロケした場所。
「目蒲線」の前に書かれているのは「五反田駅附近アパート」。そして次の行に書かれているのが「横浜平沼町アパート」。
それはまさに原節子の住んでいるアパートとして映画に映し出された同潤会の平沼町アパートのこと。これです。
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でも、小津が原節子の住むアパートとして設定していたのはやはり蒲田近辺の目蒲線沿線だったようです。で、映画に使えそうなアパートがないかと思って五反田駅付近のアパートをさがしにいった。でも、どうやらこれはと思えるようなアパートが見当たらずに、(もしかしたら誰かから聞いて)結局、横浜の平沼町にある同潤会のアパートを映したようです。
ただし電車の音は目蒲線でなければならなかったので、それを録りに行ったんですね。もしかしたら映画では使わなかった目蒲線を走る電車の映像も撮っていたかもしれません。

というわけで、あの日の推測は当たりと言ってもいいんだろうと思います(自慢ではないけど、このブログで書いてきた推測は結構当たっています)。

『東京物語』で聴かれる目蒲線の音は、この映像の45:05あたりで聴くことができます(1:22:15あたりでも)。



電車の音が聴こえる瞬間の映像がこれ。
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右側の本棚の上に「しょうじ」の遺影があります。
紀子の住むアパートに置かれた「しょうじ」の遺影が聴き続けていたのは目蒲線の音だったんですね。

※追記:「目蒲線」の横に「不動院」と読める字が書かれてあって、どこだろうかと思っていましたが、もしかしたら五反田駅に近い目蒲線の不動前駅のことなのかもしれません。隣の駅はアゲイン、ペットサウンズのある武蔵小山駅です。ちなみにこのあたりは大田区ではなく品川区ですね。
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by hinaseno | 2016-04-09 15:16 | 映画 | Comments(0)

『太陽は光り輝く(The Sun Shines Bright)』が公開されたのは1953年。映画の舞台は南北戦争から40年くらい経った1900年頃のケンタッキー州の小さな町。南部の町ではありませんが黒人が多く住んでいます。
前年に公開された『静かなる男』がジョン・フォードの祖国のアイルランド讃歌であるならば、 『太陽は光り輝く』は南軍讃歌というべきもので、昔から(アイルランド同様)南軍に対するシンパシーを持っているので、それだけで心惹かれるものがありました。
ちなみに僕はジョン・フォードといえば見ていたのは西部劇ばかりで、唯一の例外が『静かなる男』。これは村上春樹が『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』で大好きな映画と紹介していたので手に取りました。

『太陽は光り輝く』で興味深いのは出演者。
ジョン・フォードの映画は小津の映画がそうであるようにお決まりの俳優たちが登場していて、ときに映画がごっちゃになってしまうのですが(興味深い例は村上さんの『めくらやなぎと眠る女』に出てくる『リオ・グランデの砦』と『めくらやなぎと、眠る女』に出てくる『アパッチ砦』)、『太陽は光り輝く』にはジョン・ウェインもヘンリー・フォンダもモーリン・オハラも、あるいは傍役のウォード・ボンドも、そして騎兵隊三部作の『アパッチ砦』『黄色いリボン』『リオ・グランデの砦』や『静かなる男』のすべて出ていたあのヴィクター・マクラグレンも出演していません。でも、だからこそ、この作品は愛すべき小品になっています。

映画の後半、いかがわしい職業についていた女性の葬儀のシーンからは圧巻。多くの人が偏見の目で見つめる中、判事の行動に共感を覚えた人がひとりひとり自発的に行列に加わっていくシーンは涙なくしては見れません。素晴らしいの一語。
そして、最後、映画の最初ではヴィクター・ヤング楽団によって演奏されていた「My Old Kentucky Home」が、黒人たちによって歌われます。これも泣けました。
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この画像の1:27:43あたり。



かなり感極まっていたら、さらにこの後びっくりするようなオチが待ち受けていました。日本盤のDVDの最後に写ったのがこの文字。
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山下達郎さんのいたシュガー・ベイブのベーシストで、大瀧さんとも親交のあった寺尾次郎さんがこの映画の字幕をされていたとは。寺尾さんはフランス映画の字幕だけかと思っていました。

で、寺尾次郎さんが大瀧さんの曲でベースを演奏しているのを調べたらただ1曲だけありました。
それがなんと『ナイアガラ・ムーン』のアルバムの最後に収められた「ナイアガラ・ムーンがまた輝けば」。『ナイアガラ・ムーン』のほとんどの曲のベースを弾いているのは細野晴臣さんですが、この1曲だけ寺尾さんが演奏。
『太陽は光り輝く』の最後のオチが「ナイアガラ・ムーンがまた輝けば」とはすごいですね。

先日立ち寄った古書展にあった古い『キネマ旬報』をめくっていたら、グラビアに『太陽は光り輝く』が掲載されていました。ラッキー。
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by hinaseno | 2015-10-23 12:03 | 映画 | Comments(0)

今、読んでいる2冊の本。
グレン・フランクル著 高見浩訳『捜索者 西部劇の金字塔とアメリカ神話の誕生』と
岩阪恵子『わたしの木下杢太郎』。
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この2冊、いずれも最近、川本三郎さんが書評で紹介されていたもの。
川本さんが取り上げられている本はすべて欲しくなってしまうから困ります。いや、ほんとに。

岩阪さんの本は手に入れたばかり。木山捷平以来の評伝ですね。『画家小出楢重の肖像』といい『木山さん、捷平さん』といい、岩阪さんの書かれる評伝はどれも素晴らしいものなので、こちらはゆっくりと読んでいこうと思います(木下杢太郎についてはちょっとびっくりなことがあったんですが、ここに書ける話ではありません)。
その一方でここ半月ほど、ぐいぐいと読んでいるのが(といってもまだ3分の1ほど)グレン・フランクルの『捜索者』。ジョン・フォード監督の同名の映画の歴史的背景を丹念に探ったものですが、おそらく今年読んだ中では一番の本になりそうです。

で、この本の影響で、今、ジョン・フォードの映画を毎日見る日々を送っています。そしてジョン・フォードの映画のことを考えていたら、封じ込められていた記憶がよみがえってきました。
それは2013年12月30日とその翌31日のブログに書かれていること。

2013年12月30日というのは大瀧さんが亡くなられた日。そしてその翌日は大瀧さんが亡くなられたことを知った日。その日のブログを書き終えて一息ついたときに大瀧さんが亡くなられたことを知らせる第一報が届いたんですね。

その頃、僕は石川さんの影響でフォスターの曲にどっぷりとはまっていました。ブログでも書いている通り、12月29日の夕方、姫路駅前の商店街を歩いていたときに、唐突にジョン・フォードのことが頭に浮かんだんですね。ジョン・フォードならきっと映画にフォスターの曲を使っているはずだと。
そして家に戻って調べたらすぐに見つかったのが『駅馬車』。
で、翌日、駅前の商店街にあった古書店で双葉十三郎の『現代アメリカ映画 作家論』(1954年 白水社)を買ったまま読んでいなかったのを思い出して、ジョン・フォードの章を読んでみたら、その本が出た前年に公開されたばかりの映画『太陽は光り輝く』が紹介されていて、そこにフォスターの名曲「My Old Kentucky Home」のことが書かれていたわけです。
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というわけで『太陽は光り輝く』は、まさに大瀧さんが亡くなられた日に知ることのできた映画。知ったときにはぜひ見てみたいと思っていて、でも当時はDVD化されていないことは確認していましたが、大瀧さんが亡くなられたことのショックで当時心の中にあったはずのものはすべてふっとんでしまったわけです。

で、2年近くの月日が流れ、久しぶりにジョン・フォードの映画に対するマイ・ブームが到来して封印されていた『太陽は光り輝く』のことを思い出してチェックしたら、昨年の暮れにDVD化されていたことがわかってびっくり。
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by hinaseno | 2015-10-22 13:46 | 映画 | Comments(0)

夏頃の話になりますが、このブログでも何度か触れていた川島雄三の『銀座二十四帖』(昭和30年)をようやく見ました。銀座、築地の興味深い風景がいっぱい。映画の冒頭では大田区の蒲田に近い新田銀座というのが出てきてびっくり。昔、大瀧さんが平川さんに調べるよう指示(?)されたのはどうやらこのシーンの場所だったみたいです。平川さんや石川さんの生まれ育った場所の近くですね。
いろんな風景が出てくる中、最も心ときめいたのはこの風景。映画のエンディングで写されたカット。
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服部時計店の時計台の向こうにアドバルーンがあがっています。僕にとっては超お宝的風景。というわけで...
♫空にゃ今日もアドバルーン
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by hinaseno | 2015-10-08 12:56 | 映画 | Comments(0)

今井正監督の『ここに泉あり』(昭和30年公開)をまた見ました。映画自体も素敵ですが、三井弘次、加東大介ファンとしては最高に楽しめる作品。ほろりとさせられる場面、思わず笑ってしまう場面など、飽きることがありません。さらに地方に作られた交響楽団の苦闘を描いたものなので、いろんなところに音楽がちりばめられています。
で、大好きなフォスターの曲も。
最も感動的な場面の一つであるこのシーンで演奏されたのがフォスターの「金髪のジェニー(Jeanie With the Light Brown Hair)」。僕がフォスターの曲の中でも特に好きな曲です。
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で、今回見直していたらもう一曲フォスターの曲が”歌われて”いました。歌っていたのは、なんと三井弘次。
経済的なことから楽団の存続がきびしくなっていよいよ楽団を解散すると決まった夜、最後の晩ということで楽団員がいっしょに酒を飲み始めます。もちろん一番酔っ払っているのは三井弘次。
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踊ったり、わけのわからないことをわめいたりしていますが、こういう演技は抜群。左にいるのは加東大介。

この後三井弘次は一人だけ酒を飲もうとしない楽団員の方に向かって歌を歌いながら歩いていきます。
このときに歌っていたのがフォスターの「ケンタッキーの我が家(My Old Kentucky Home)」の最初の部分。
The sun shines bright in the old Kentucky home

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なんで唐突にこの歌を、と思いましたが、改めてその前を見返したらちゃんと伏線がありました。
べろべろに酔いながら三井弘次が口にしていたのがこの言葉。
「電気センタッキー・ホームに扇風機」

どうやらチンドン屋をしたときのセリフだったようです。「電気センタッキー・ホーム」というのは電気洗濯機とケンタッキー・ホームをかけた言葉だったんですね。

それにしてもこの『ここに泉あり』の2年前に公開された小津安二郎の『東京物語』でもフォスターが使われていたりと、当時の日本人にフォスターの曲が深く浸透していたことがよくわかります。
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by hinaseno | 2015-07-19 12:25 | 映画 | Comments(0)

加東大介の話が続いたので今日は三井弘次の話。
この日紹介したインタビュー記事で、三井弘次は与太者シリーズの映画に出ていたときに、小津に認められて小津の映画に出るようになったと語っていました。
与太者シリーズは昭和6(1931)年から昭和10(1935)年にかけて10回も続いています。一応作品を並べてみます。
①令嬢と与太者(1931年)
②初恋と与太者(1932年)
③与太者と縁談(1932年)
④戦争と与太者(1932年)
⑤与太者と芸者(1933年)
⑥与太者と海水浴 (1933年)
⑦女学生と与太者(1933年)
⑧与太者と脚線美(1933年)
⑨与太者と花嫁 (1934年)
⑩与太者と小町娘(1935年)

このシリーズの「与太者と海水浴」に、当時9歳だった高峰秀子さんが出演されていました。しかも男の子役。高峰さんは子役の頃、かなりたくさんの映画で男の子役を演じていたんですね。ここで「与太者と海水浴」のいくつかのシーンを見ることができます。学生服を着て男の子の役を演じている高峰さんや与太者の一人である三井弘次の写真を見ることができます。

高峰秀子さんの『わたしの渡世日記』では、この「与太者と海水浴」と三井弘次の話が少し出てきます。ちなみにこのとき三井弘次は23歳。
「与太者と海水浴」は、それまでの女優路線一辺倒の蒲田調には珍しく、若者三人組の喜劇シリーズであり、三人組の一人は、現在もなお独特な芸風で活躍中の三井弘次であった。今から四十余年の昔、「与太者と海水浴」の宣伝スチールを撮るために、私は「写場」へ行って三人の若者と初対面をしたが、なぜか小柄で目つき鋭く、いなせな、というより一癖ありげな若者、三井弘次だけが私の印象に残った。
「今までの松竹の俳優にはなかったタイプの人」だと、子供心にも感じたのだろうか? 以来、四十年余り、私は執念深く三井弘次をみつめ続けたが、彼が歩、一歩と独特の個性を生かして「いぶし銀」のような演技者になってゆくのが、他人ごととは思えないほどうれしかった。彼の演技に接するたびに、私は「先見の明があった」と得意になっている。彼と私は、その後も何本かの映画で共演したが、それとこれとは全く無関係で、私は彼の一ファンであり、彼の演技を見ることが楽しいのである。

正直言えば、小学校3、4年の女の子であれば、いや、女性であれば、嫌悪感を抱かれても仕方がないような人なのに、 三井弘次という役者に目を留め、その後も「執念深く」「みつめ続け」たということに高峰秀子という人の独特の感性を改めて思い知りました。
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by hinaseno | 2015-07-17 12:25 | 映画 | Comments(0)