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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno
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2017年 09月 08日 ( 1 )



朝妻一郎さんの『ヒットこそすべて オール・アバウト・ミュージック・ビジネス』に収録された「70年代のナイアガラ」の後半部分を。


 そのうちELECの経営が傾いてきて、日本コロムビアにナイアガラが移籍することになった。3年で12枚を制作するという契約を結ぶことになるんだけど、その途端にシュガー・ベイブも、伊藤銀次のココナツ・バンクも解散してしまった。
 でも、その状態で作った移籍後最初のアルバム『ナイアガラ・トライアングル Vol.1』(76年)は売れたんだよ。2万枚近くいったんじゃないかな。山下、伊藤、大滝の3人が集まって、新しい音楽をアルバムに詰め込んだ。それが受けたんだ。僕自身も当時のナイアガラでは一番好きなアルバムだった。ただ、そのせいでコロムビア側の期待がすごく大きくなっちゃった面もあると思うんだ。
 『ナイアガラCMスペシャル』(76年)はもっと売れて、当時で3、4万枚。「サイダー」シリーズとかはテレビで知られていたからね。
 ナイアガラ初の女性アーティストになったシリア・ポールは、僕がやったモコ・ビーバー・オリーブのオリーブ。女性シンガーは必要だと大滝君は考えていたと思うし、モコ・ビーバー・オリーブの作品を聴いていて、自分だったらもっと良いものができると思っていたんじゃないのかな。実際、アルバム『夢で逢えたら』(77年)はとてもよくできていたよね。残念ながらセールス的には期待したほどではなかったけどね。
 自分が「これだ!」と思って出したものが、何かの具合でうまく世の中とマッチしなくてがっかりしたという経験は誰しもあるものだよ。『夢で逢えたら』が不振で(大滝君が)がっくりしていたのは本当。
 『ナイアガラ・カレンダー』(77年)も良いアルバムだったけどね。最後は『レッツ・オンド・アゲン』(78年)でコロムビアとの契約条件を満たして、ナイアガラは一旦休止に入る。機材も売り払ってしまって、翌79年には何も活動していない。だけど、本人は生きているわけだからね、僕は絶対にどこかで何かをやってくれるに違いないと信じていた。
 それにいくら契約があったとは言え、年4枚のペースであれだけの作品を作り続けたのは相当無理があった。特に大滝君はスタジオワークにこだわっている人なんだから、本当はもっと時間をかけたかったと思う。ムチでペンペン叩いて作品を作り続けさせることが、必ずしも良い結果を生むとは思えないわけだから。
 そういう意味では、大滝君に心から満足のいく作品を作ってもらうにはどうしたらいいかということを考える上で、70年代のナイアガラの作品群は重要だったと思うよ。『A LONG VACATION』のためには必要なことだったんだ。
 80年代に入ってからかな、当時、六本木にあったうちの会社に大滝君が現れて、「ちょっとまたアルバムを作りたいんだけど」と切り出した。そのときにJ.D.サウザーの「ユー・アー・オンリー・ロンリー」をかけて、「こういうのがやりたいんだ」って彼は言った。僕は「最高。これいいよ!」って答えて、そこから『ロンバケ』の制作が始まっていく。


で、この後の話は「A LONG VACATION」と題された章へと続きます。その始めの部分を少し。


 僕にとっての80年代の幕開けは、大滝詠一君の『A LONG VACATION』から始まっている。
 日本コロムビアとのナイアガラの契約が終了して、1年ぐらい動きがなかった大滝君が、当時六本木にあったPMPにやって来て、J.D.サウザーの「ユー・アー・オンリー・ロンリー」みたいなレコードを作りたいと言った。すべてはそこからだった。

さて、ここで疑問。果たして大瀧さんが朝妻さんのところにJ.D.サウザーの「ユー・アー・オンリー・ロンリー」みたいなレコードを作りたいと言いに行ったのがいつ頃なのか。さらに、「ポッと『カナリア諸島にて』ができて、朝妻さんとこ行って喜んだ」のはいつ頃のことなのか。

それから、J.D.サウザーの「ユー・アー・オンリー・ロンリー」が『ロンバケ』とどうつながるのか。

次回はそのあたりについて考えてみたいと思います。

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by hinaseno | 2017-09-08 15:14 | ナイアガラ | Comments(0)