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2013年 09月 24日 ( 1 )



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荒川小学校に勤めていた頃の、つまり昭和2年4月から昭和3年の木山捷平が暮らしていた場所を改めて地図で確認します。
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これは前に紹介した大正十五年発行の地図を拡大したもの。荒川小学校は、地図記号では道の右側になっていますが、実際は道の左側、オレンジで囲んだ場所にあります。学校のすぐ南にある○記号の役場は、この大正4年の写真(一番上のタイトル画像)の左端に写っている大きな建物。

さて、木山さんが最初に荒川小学校にやってきたときに下宿した家があったのは学校の南の町坪(ちょうのつぼ)にあった家。確実なことは言えませんが、おそらく赤丸をつけた線路沿いにあった家(考えたら木山さんはいつも線路のすぐ近くに家を見つけます)。で、この町坪に住んでいた時期に発行していた『野人』の第一輯から第三輯に記載されている木山さんの住所は姫路駅近くの南畝町、謎に満ちた南畝町です。

木山さんが町坪にいたのはおそらく9月くらいまで。10月の初めには市街地に近い千代田町に移っています。すぐそばには船場川が流れています(地図の水色で示したもの)。

木山さんがいつ頃どこに住んでいたかを知る唯一の手がかりは『木山捷平 父の手紙』に収められた父静太から木山さんに送られた手紙、および静太の日記です。この中に町坪の地名も出てきます。
昭和2年10月20日の静太の手紙にはこんなふうに書かれています。この前の日に軍隊を慰問するために村(岡山県小田郡新山村)を代表して姫路にやってきたんですね。ちなみにこれは大阪毎日新聞が昭和2年に発行した岡山県地図(この地図も神戸の海文堂書店で手に入れました)。岡山と広島の県境の笠岡から北に登ったところに新山村があります。赤の四角で囲んだ山口という場所に木山さんの生家があります。
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この日、静太は井笠鉄道の新山駅で軽便鉄道(!)に乗って笠岡に行き、そこで山陽本線に乗り換えて姫路までやってきています。4時間半ほど。静太は山陽本線の車窓から荒川小学校を眺めています。当時は線路から小学校まで視界を遮るようなものは何もなく、はっきりと小学校を見ることができたようです。その日はたまたま荒川小学校の運動会の日。
昨日行きしなの車窓、運動会はよく見えた。何をして居るのかそれは観えるものではない。学校が見える間はよく見えたので町の坪は見えなんだ。英賀保の小学校にも高く網を張つたり旗が立つたりして居た。

荒川小学校は姫路へ向かう汽車の進行方向からすると左側、そちら側を静太はずっと見ていたので、反対側の町坪は目に入らなかったんですね。ただし、この少し前に木山さんは町坪ではなく千代田町に移り住んでいたのですが、ずっと町坪宛の手紙を書いていたので、町坪がどんなところなのか気になっていたんでしょうね。
ちなみに英賀保(あがほ)は姫路の一つ手前の駅。町坪からだと、姫路駅より英賀保駅の方が近いので、静太は何度か英賀保駅に捷平宛の荷物を送っています。そこもこの日運動会だったみたいですね。調べたらその日は水曜日。

ところで、これは現在の町坪の交差点辺りの写真。
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左に曲がるとすぐに荒川小学校。町坪など、線路の南側に住んでいる子供たちは線路と線路沿いの県道をまたぐ大きな歩道橋を渡って学校に向かいます。で、右手前にある、今は営業をしていない「よこうち」というお店のあった場所に昔木山さんが住んだ家があったように思われます。
現在の町坪はというと、こんな風に大きなマンションも建ってはいますが、家がぎっしりと建ち並んでいるわけではなく、一歩、県道からはなれるとこんなふうに昔ながらの家が残っている場所もあります。
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もう少し離れると田圃がまだあちこちに残っています。
このあたりは空襲を受けることもありませんでした。

近年、ひとつだけ、大きな変化があったとすれば、阪神淡路大震災のとき、町坪の南の玉手という場所に田圃を埋め立ててかなり大規模な仮設住宅が建設されたこと。神戸から最も遠い場所に作られた仮設住宅でした。今調べたら300戸近く。たぶんあまり埋まらなかったような気がします。あるいは神戸から遠すぎたためにちょっと住んで、すぐに出て行った人が多かったんでしょうね。でも、何人かの子供たちは町坪を通って荒川小学校に通ったはず。少しはいい思い出を作ってくれたでしょうか。

ところで、昭和2年10月20日の手紙。前日のいろんな思い出を書いていますが、結局木山さんには会っていないんですね。村を代表しての公式な行事だったので、そんな時間はとれなかったようです。帰りの汽車の話で、三石のことが少し出てきます。
昨日は忙しくて四時十五分の列車の乗り、弁当を買ひ、荒川あたりで食つたのだ。それまで何一つ口に入れなんだ。茶一杯飲まなんだ。姫路の弁当だけでは足らなんだ。上郡で鮎ずしを買つて食つた。鮎ではなくてニセモノだ、うまくなかつた。上郡の鮎鮓、三石の弁当、これが兵庫県西端、岡山県の東端の背中合わせの二大名物として珍とするに足るのであらう。

静太の書いている「三石の弁当」なんて、もちろん今はもうなくなっているはず。一体どんなものが入っていたんでしょうか。
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by hinaseno | 2013-09-24 11:14 | 木山捷平 | Comments(0)