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by hinaseno
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2013年 09月 17日 ( 1 )



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昨日は天気の回復してきた午後に、荒川小学校近くの町坪にお住まいの”ある方”に話をうかがいに行ってきました。途中で見た船場川も、それから後で見た夢前川も雨が上がった後とはいえ、かなり水位が増していて濁流が流れていました。船場川も昔は何度か氾濫したことがあったとのこと。
でも、雨がたくさん降ると、岡山の旭川、それから百間川のことを考えます。

ところで昨日お会いした町坪にお住まいの男性。お会いするのは2度目です。昭和5年生まれで、荒川小学校に通われていました。町坪には戦前からずっとお住まいになられています。前にはじめてうかがったとき、荒川小学校のこと、そして木山さんが最初に下宿していた家に関することをいろいろと話していただいたのですが、そのときにはあまり時間がなかったので、改めてゆっくりお話をうかがってきました。
最初にうかがったときには知らなかったのですが、家に戻って『荒川小学校百年史』を見たら、なんと荒川小学校の思い出を書かれていらっしゃった中のお一人。その方は昭和17年度卒です。その話をしたら、「そういえばそんなこともあったな。○○さんに無理矢理、書けと頼まれたんだ」と楽しそうに話していました。

実は、その方の名字は木山さんが町坪に下宿先の家と同じ。僕がもっている戦前の地図にも一件だけその名字の家があったので、いつか訪ねてみようとおもいつつ、時がたってしまったのですが。
で、最初におうかがいをしたときにお名前を聞いてわかったのは、僕が姫路時代の木山さんのことをいろいろと知るきっかけになった兵庫教育大学の前田貞昭教授の「木山捷平の姫路時代を探索する」という文章でインタビューに答えられている方でもあったんですね。前田教授の論文は2008年に井伏鱒二の故郷の広島県福山市にあるふくやま文学館で開催された「井伏鱒二と木山捷平」展のために作られた『井伏鱒二と木山捷平』に収められています。

そのことに関する話も昨日したのですが、いくつも面白い話が。
僕が最初にうかがったときに木山捷平の話をしたら、全くぴんときていなかったようでしたが、話をしているうちに、そういえばそんな話を以前どなたかが聞きに来たな、ということになって、もしかしたら前田教授の論文に名前のあった人ではと思って調べたらやはりそうでした。
ただ、そのあとでその論文が出たこともご存知でなく、木山捷平の本を読まれたわけでもなかったようです。ですから、木山捷平の名前はすっかり忘れられていました。
ところが僕が「井伏鱒二と関わりの深い人で...」と口にしたら、急に表情が変わって「おおっ、井伏鱒二! 子供の頃大好きだったんだ」と。へえ〜っと思いつつ、その方の子供の頃、つまり戦前、戦中にいったい井伏のどんな本を読まれていたんだろうと思ったのですが、題名は覚えられていませんでした。でも、『少年倶楽部』という雑誌に連載されていた作品だったとのこと。
「それが好きで好きで、親に頼んで『少年倶楽部』だけ買ってもらっとったんだ」と。

家に戻って調べたらヒュー・ロフティングの『ドリトル先生船の旅』(現在は『ドリトル先生航海記』)。ネット上に画像があったので、ちょっとお借りして貼っておきます。
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興味深いのは、『少年倶楽部』に連載されていたとき(昭和16年〜17年)に、上の画像でもわかるように、原作者のヒュー・ロフティングの名は隠されていて、井伏鱒二の作品として発表されていたんですね。まさに、"そういう時代”だったわけです。ですから、昨日お話をうかがった方も、『ドリトル先生』を井伏の作品と思っていたんですね。

いずれにしても、子供の頃に大好きだった井伏鱒二と、それから近くに住んでいた木山捷平についての本の中に自分の名前が載っているということを非常に喜んでいらっしゃいました。ただ、残念なことに目がほとんど見えなくなっていらっしゃったので、実際に見て確認されることはできなかったのですが。

そういえば、『荒川小学校百年史』に載っているこの方の文章、「読んでもらえるか」とのことだったので、お読みしました。20年前に書かれているので、何を書いたか忘れているとのことでしたが、読んでいるうちにいろんなことを思い出されていました。
せっかくなのでその方の文章を少し引用しておきます。文章、お上手なんです。
飾磨郡荒川村が姫路市に合併した翌年、昭和12年の1年生。支那事変の起こった年でもあった。職員室の運動場側に南京占領の色ずりの大きなポスターが不思議に残る。男女各1クラス、男組は47名、赤穂浪士と同数だとよろこんだ時もあった。(中略)
勉強は自分も含めて全員よくやったことにして…………、あれは1、2年の頃か。悪童何人かの学校の帰り、カバンを四ツ池の土手にほってはいのぼった西の山、そこには、国語読本「向こうの山にのぼったら」の文章そのままの景色があった。建築が新しいのか同じ木造でも講堂はピカピカ。大きな桝目の天井、中央のシャンデリア?その講堂での映画会。白黒であったが、ラジオが村で数台の頃であってみれば楽しみだった。宮澤賢治の名は知らなかったが「風の又三郎」が今も心に残る。四大節、元日は好きだった。学校での式典のあと、町坪は高等科の兄貴分が連れていってくれる朝日山の観音さん参り。学校から歩いて英賀保駅へ、網干までの一駅ではあるが汽車に乗ることのうれしさ…………。自分たちですごく遠くへ旅した気になった。(後略)

ところで、もしかしたら木山さんも子供たちと一緒に、あるいは一人で登ったかもしれない「西の山」。地図を見ると165メートルほど。「向こうの山にのぼったら」の文章はそれを読んでいるときには知らなかったのですが、それに書かれているように海が見えたんだと。
それからもうひとつ見えた場所として、そのときのことを思い出されながら語られた言葉が僕にとってはちょっと嬉しいことばでした。
「山の向こうの村が見えてのう...、蒲田(かまだ)が」

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by hinaseno | 2013-09-17 09:32 | 木山捷平 | Comments(0)