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by hinaseno
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2013年 09月 13日 ( 1 )



さて、「あまちゃん」のヒロインである能年玲奈さんの話。といってもあくまで名前に関する話です。出身は姫路の北部の、つまり市川上流の兵庫県神崎郡神河町。
「能年」という名字がめずらしくて、おそらくこのページなんかを調べられて、南畝町のことを書いている人が何人もいたんですね。そのために僕が「南畝町」「由来」なんて言葉で検索したときに、その画像の中で彼女の写真にヒットしたわけです。

その「日本姓氏語源辞典」には「ノウネン」という名字についてこう記載されています。

ノウネン 南畝 兵庫県多可郡多可町。兵庫県姫路市南畝町発祥。江戸時代から記録のある地名。「農年」と表記してノウネとも発音した。
ノウネン 能年 兵庫県神崎郡神河町・埼玉県。南畝の異形。
ノウネン 農年 兵庫県西脇市。南畝の異形。

能年玲奈さんの「能年」はまさに兵庫県神崎郡神河町にしかないようですね。で、兵庫県姫路市南畝町発祥の「南畝」の異形であると。さらにもう一つの異形として「農年」という字もあるとのこと。

南畝町のことにずっと関心を持ってきた僕としては、「兵庫県姫路市南畝町発祥」なんて言葉を見ると嬉しい気もしますが、でも、ちょっと待てよ、ですね。

もともと「南畝」は「長畝」から来ています。『播磨国風土記新考』(昭和6年)の「長畝川」の話の後の説明部分にはこんなことが書かれています。

今姫路市の西南部に南畝と書きてノオネンと唱ふる町あり。古くは長畝と書きしを中ごろは農年と書きき(農人町とは別なり)。此町と長畝川・長畝村とは地理的関係は無けれど歴史的関係はあるべし

この説明を書いた人は「長畝川」を別の場所にしているのですが、ポイントは南畝町は賀毛郡にあったとされる長畝村と歴史的な関係をもっていたということ、そして「南畝」という言葉も、古くは「長畝」、それから「農年」と書かれていたということ。つまり「農年」も、そして「能年」も「南畝」が発祥ではなく、本来は「長畝」なんですね。
戦前の住宅地図を見ても、南畝町には「南畝」さんも「農年」さんも、そして「能年」さんも住んでいません。

では、賀毛郡長畝村はどこにあったんだろうかということになりますが、今の所調べた限りは不明のようです。でも、ちょっと興味深いことがあります。
先程のネット上の「日本姓氏語源辞典」を見ると、「南畝」という名字を持った人は兵庫県多可郡多可町、 「能年」という名字を持った人は兵庫県神崎郡神河町、そして「農年」という名字を持った人は兵庫県西脇市。兵庫県でもわりと限られた地域になります。で、それらの町は播磨国の地図にあてはまてみると、だいたいこの赤丸のあたりに入ってきます。賀毛郡もありますね。
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おそらくは小さな、村人の数もあまりいなかったはずの長畝村は、賀毛郡の西の市川に近い方にあったと思われます。で、その長畝村に住んでいた人の子孫が、「長畝」が「ノウネン」と発音されて「南畝」になったと同様に、ある場所では「農年」、そして神崎郡の方に行った人は「能年」という名字を名乗るようになったと考えるべきだと思います。

その賀毛郡の西にあったはずの長畝村の人が姫路の南畝町にやってくることになったのは、いうまでもなく古代の市川、今の船場川の流れがあったからこそ。

ところで、先日触れた南畝町の名前の由来となる「長畝川」の名前の由来を書いた『播磨国風土記』は、正確にはこう書かれています。横書きなので返り点を入れることができませんが。

所以号長畝川者 昔此川生蒔于時賀毛郡長畝村人到來苅蒔爾時此處石作連等爲奪相闘仍殺其人即投棄於此川故号長畝川

「長畝川」には「ナガウネガワ」、「石作連」には「イシツクリノムラジ」、「蒔」には「コモ」と読みがながふられています。さらに「蒔」は△の印が横にあり、誤字の指摘がされています。正しくは「蒋」なんでしょうね。

送り仮名がないので、現代語を交えて書き下し文にしてみます。

長畝川と号する所以は、昔、この川に蒋が生えていて、時に賀毛郡長畝村の人が来たりて蒋を苅った。その時、ここの石作連らが奪ったため相闘い、その人を殺してこの川に投げ棄てた。故に長畝川と号す。

何だかひどい話ですが、名前の由来としては説明が足らなさすぎるという感じがします。でも、どうやら『播磨国風土記』にはこんな感じの説明が多いみたいですね。
実際には、この殺された村人の家族が殺された人を探しに来るとか、いろいろの後の話があったはず。
地名に名前が残ったということは、おそらく後でこの殺された村人をきちんと葬って供養し、その後も祈りを捧げ続けたんではないでしょうか。石作連というのは石棺を作る人たちなので、彼らも殺してしまったことを反省して、その村人を葬るための石棺を作っただろうと。
そして、ときどきは賀毛郡長畝村の人たちがここにやってくるようにもなって交流が生まれた...。
というようなところまでいかないと、地名としては残らないはずだと思います。

まあ、あくまで推測なのですが、この推測をしておかないと、僕の住んでいる近くまで死体が流れてきたというイメージが払拭されないので。
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by hinaseno | 2013-09-13 09:03 | 雑記 | Comments(1)