Nearest Faraway Place nearestfar.exblog.jp

好きなリンク先を入れてください

Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno
プロフィールを見る
画像一覧
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

「自分の理想の女の子になろうと思った時期にディレクターの田村さんが担当になって…」


小泉今日子さんのことについて書くのならば、やはり大瀧さんが作曲した(作詞は和田誠さん)『快盗ルビイ』のことに触れなければなりません。でも、この日書いた「「快盗ルビイ」のヒミツ」をはじめ、この曲については何度も書いてきたので、今回は、この曲を書いたいきさつに触れてみようと思います。


その前に小泉さんのデビューのことから。小泉さんは1981年初頭に、あの『スター誕生』に出場して合格。ビクターと契約します。『スター誕生』はもちろん見ていましたが、欽ちゃんが司会をやめたときくらいから見なくなっていたので小泉さんが出ていたのも合格したのも知りません。

ちなみに『スター誕生』のメインスポンサーはアサヒビール。ただしCMで流していたのは清涼飲料水部門。そう、あの三ツ矢サイダー。この三ツ矢サイダーのCMの曲をかいていたのが、はっぴいえんどをやめてソロ活動を始めていたばかりの大瀧さんですね。これの最初の方でずらっと見ることができます。




さて、『スター誕生』で合格した小泉さんは翌1982年に「私の16才」という曲でデビュー。なんとデビューした日が3月21日。ナイアガラデーに小泉さんがデビューしていたんですね。ちなみに1982年3月21日のナイアガラ・デーに発売されたのはあの『ナイアガラ・トライアングル Vol.2』。この記念すべきアルバムと小泉今日子さんの歴史が同じだったとは。大瀧さんがこのことに縁を感じないはずはありません。


今、手元には昨年の2月4日の小泉さんの50歳の誕生日の日に発行された『MEKURU』という小泉さんを特集した雑誌があるのですが、ずらっと並んだシングル盤のジャケットの写真を見ると、デビュー当初は正統派のアイドル路線で売り出していたことがわかります。この1982年は「花の82年組」とよばれるほどアイドルの当たり年で小泉さんはその中ではかなり出遅れた状態になっていたようです。当時は歌謡曲にも目を向けていましたが、最初の4枚のシングルの曲はどれも知りません。

僕が小泉今日子というのを初めて知ったのは5枚目のシングルの「まっ赤な女の子」ですね。ウィキペディアを見ると、やはりこの曲でブレイクしたと書かれています。この曲のときに髪をショートカットにイメージチェンジしたとも。確かにその前のシングルのジャケットの写真は当時のアイドルがみんなしていた聖子ちゃんカットですが、ここでバッサリ髪を切っています。いろんな意味でこの曲が転機になったようですね。

実はこの「まっ赤な女の子」からビクターの小泉さんの担当ディレクターが代わっているんですね。それまではあの「ルイジアナ・ママ」を歌った飯田久彦。この人が『スター誕生』で合格の札を上げたようです。でも彼がディレクターをしていたときには曲がヒットしない状態が続いていました。

そこで1983年から新たにディレクターになったのが田村充義さん。この人がキーマンでした。『MEKURU』でのインタビューでそのあたりのことを小泉さんはこう言っています。


「(デビューして)1年くらい経ったころ、『そろそろ違うことやってもいいのかもしれない』と思って、私は歌も下手だしダンスもできるわけじゃないし、どうせそんなに長くこの仕事をしていないだろうから、だったらちょっと違う女の子像を作れたらいいなあと思ったんですよね」
「自分の理想の女の子になろうと思ったんです。そう思っていた時期に、ちょうどディレクターの田村(充義)さんが担当になって、彼が持ってきてくれる企画や楽曲がまさにそれができるなっていうものだった。『この曲ならこういう格好ができる、こういう髪型でもオッケー』みたいな。田村さんは時代や人を見る力があるので、そういう感覚がピタッと合ったんでしょうね」

で、『MEKURU』にはその田村さんのインタビューも。


「『まっ赤な女の子』から、25年間小泉さんを担当しました。アイドルの制作は初めてだったので、どうやるべきかを考えましたが、結果が出なかったらどうせクビになるんだから、だったら自分が面白いと思うことをやろうというところからスタートしました。82年組のアイドルの中で、当時はまだ5番手、6番手でしたから、事務所の方も大目に見てくれたんだと思います。だから、まずはじめに僕がやろうとしたのは、他のアイドルとの差別化でした」
「糸井重里さんが大活躍されているキャッチコピーの時代でしたので、シングルのタイトルをキャッチコピー化したんです。キャッチコピーのようなタイトルのシングルを作り重ねることで、彼女のイメージが固定化されるんじゃないかと」

というわけで「まっ赤な女の子」から、かなり印象的なタイトルの曲が作られるようになります。そんな中に、ある人たちにとってオッと思わせるようなタイトルの曲が登場します。

「渚のはいから人魚」「ヤマトナデシコ七変化」、アルバムに収録された「颱風騎士(タイフーンナイト)」。

はっぴいえんどの『風街ろまん』に収録された「はいからはくち」、「暗闇坂むささび変化」、「颱風」をパロディにしたようなタイトル。そしてまもなく松本隆さんにも作詞を依頼するようになります。

そう、田村さんは昔からのはっぴいえんどファン、そして「ゴー!ゴー!ナイアガラ」時代からの大瀧さんファン(ナイアガラー)だったんですね。大瀧さんがよくラジオ関東時代の「ゴー!ゴー!ナイアガラ」を聴いていた人に業界に入った人が多いと語られていましたが、田村さんもその一人でした。


[PR]
by hinaseno | 2017-01-23 12:58 | 雑記 | Comments(0)