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by hinaseno
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「コニーよ、最後だから私の大好きな曲を歌ってくれよ」


前から予告していたように今日から何回かにわけて「アメリカン・ポップス伝パート3の第2夜」の文字起こしをします。この日の放送の大瀧さんがつけたタイトルはボビー・ダーリン、コニー・フランシス、ニール・セダカによる「ティーンエイジ・トライアングルVol.0」。この3人の絡み合いの中で60年代ポップスの原点ともいうべき曲が作られていくストーリーは何度聞いても興奮しますが、同時にコニー・フランシスのボビー・ダーリンへのフォロー度合いも語られるところが面白いのですね。ただ、そのボビー・ダーリンがサンドラ・ディーと結婚することになることまではこの日の放送では語られません。

この日の一番の聴きどころはボビー・ダーリンの「ドリーム・ラヴァー」、コニー・フランシスの「カラーに口紅」とそのB面の「フランキー」、そしてニール・セダカの「オー!キャロル」がかかるところですね。アル・カイオラも登場します。

放送でも語られていますがコニー・フランシスの「カラーに口紅」は大瀧さんのポップスの原点。ちなみに、僕はもちろん後追いではありますが、初めてオールディーズ(大瀧さんはこの表現を使いませんが)で好きになったのがコニー・フランシスの「フーズ・ソーリー・ナウ」でした。ということなので、この日の放送でこれがかかったときにはかなり感動したことを覚えています。コニー・フランシスが「フーズ・ソーリー・ナウ」を歌うことになるエピソードを語るときに大瀧さんが声で演技をしたのが笑えました。


*  *  *


アメリカン・ポップス伝パート3 第2夜(1/6)


大瀧詠一です。アメリカン・ポップス伝パート3の第2夜。本日はニューヨークのポップス・シーンについてボビー・ダーリンとコニー・フランシス、そしてニール・セダカの3人に絞りまして、その3人の関係がニューヨーク・ポップス、さらには60年代ポップスを作っていくその過程をタイムラインを追いながら説明していこうと思います。

まずは前回のおさらいから。


BOBBY DARIN / Splish Splash

(注) このときにかかるのは演奏前のやりとりも入っている「Take 7」の音源(『Roberto Cassotto(Aka Bobby Darin): Rare, Rockin'& Unreleased』というCDに収録された音源のようです)。この日の放送ではこのようなやりとりの入った音源がいくつか使われています。


ニューヨーク最初のロックンローラーとなったボビー・ダーリンはブロンクスの学校時代の知り合いだったドン・カーシュナーと作家コンビを組んで音楽ビジネスをスタートしたということは前回もお話しいたしました。そしてコマーシャルの仕事をしていた時にコニー・フランシスと知り合って。コニーはすでに55年にレコード・デビューを果たしていました。デビュー曲は「フレディ」という曲でした。


CONNIE FRANCIS / Freddy


このように売れないシングルが続いて、そして4枚目がボビー・ダーリンとドン・カーシュナーの曲でした。


CONNIE FRANCIS / My First Real Love


ボビー・ダーリンもコーラスでがんばりましたが、全くかすりもしませんでしたね。そうこうしているうちにボビー・ダーリンもレコードを出すことになってメジャー会社のデッカからデビューします。


BOBBY DARIN / Silly Willy


ボビー・ダーリンもデッカから4枚シングルを出しましたが、これも全く売れませんでした。

さて、もうひとりのニール・セダカは同じニューヨークでもブルックリンですからボビーやコニーとは住んでいる場所が違いました。もっともコニーはニュージャージーでしたけれどもね。

セダカは同じアパートに住んでいたハワード・グリーンフィールドとコンビを組むことになります。それが1952年です。それにしてもこの2人が同じアパートだったというのは、まあ出来すぎのような話なんですけれども、同じ学校とか、近所に住んでいたとか、よくある話なんですよね、これがね。グリーンフィールドの方が先輩だったので出版社に曲を売り込みに回っていたんですね。するとプログレッシヴ・ミュージックという会社がありまして、そこが2人の曲を買ってくれました。その曲はアトランティックのクローヴァーズが吹き込んだのです。


THE CLOVERS / Bring Me Love


クローヴァーズの「ブリング・ミー・ラヴ」でした。この2人の才能を認めた出版社のジェリー・ウェクスラーはもう1曲彼らの曲を取り上げて女性グループのクッキーズに歌わせました。タイトルは「パッシング・タイム」。


THE COOKIES / Passing Time


このクッキーズとはセダカは6年後に再会することになるんですけれど、まあどちらにしてもこの2曲はB面で、言うなれば数合わせのB面作家として使われたわけですね。しかしアトランティック・レコードの重鎮であったところのジェリー・ウェクスラーは後に「あの2人とはあの時に正式に契約をしておけばよかった」というふうに後悔したそうです。

セダカはこの当時、まだハイスクールに在籍中でした。アブラハム・リンカーン・ハイスクールという由緒ある名前ですね。ブルックリンにあるこの学校なんですけれども、他にもたくさんの音楽関係者を輩出しています。ハワード・グリーンフィールドも先輩でした、そこの学校の。それからポマス&シューマン(Pomus & Shuman)のモート・シューマン、大先輩ですね。他にはボブ・フェルドマン、ニール・ダイアモンド、この2人は後輩です。そして学校の同僚と組んだグループがトーケンズでした。


THE TOKENS / I Love My Baby


このトーケンズもヒットが出るのはこれから5年後のことなんですね。

コニー・フランシスはMGM、ボビー・ダーリンはデッカとメジャー会社だったんですけれども、ニール・セダカはマイナー・レーベルからのスタートでした。しかし結局3人とも全くヒットせずでエルヴィスが「ハートブレイク・ホテル」で登場した1956年のことでしたが、この3人にとってはスターへの道はまだ遠かったのでした。

翌57年、コニー・フランシスにとっては試練の年となったんですね。というのもこの3年間で9枚もシングル盤を出したんですが1曲もヒットしなかったんです。さすがにMGMレコードもしびれを切らして、次の10枚目のシングルもヒットしなかったら契約を打ち切るというふうに言ってきたんですね。そこでステージパパの登場ですね。

パパは「いいかいコニーよ、おまえは18曲も無駄にした。だから最後だから私の大好きな曲を歌ってくれよ」というふうに頼んだんです。それは30年以上前の古い歌でした。


ISHAM JONES ORCHESTRA / Who’s Sorry Now


コニーのパパはこの歌が大好きで、いつも歌っていたんだそうですね。しかしコニーは「こんな古くさい歌はイヤよ」と言って断ったんだそうですけれども、まあ結局は最後だということで押し切られて吹き込みをすることになりました。ま、しかし結果的にはそれが大ヒットとなってコニー・フランシスはようやく有名になれたわけです。


CONNIE FRANCIS / Who’s Sorry Now


「フーズ・ソーリー・ナウ」、コニー・フランシスでした。この曲がチャートを賑わしていたのは58年の4月頃ですから、すでにマーティ・ロビンスのポップ・カントリー調の曲は市民権を得ていた時期ですね。ロッカ・バラードとポップ・カントリーを足したようなアレンジが成功の原因だったんじゃないでしょうか。

このレコーディングに関してコニー・フランシスはおもしろいことを言っています。「ここまでのシングルは常にだれ風に歌おうというふうに考えていた。しかしこの時はだれの真似もしなくて自然に歌えた」と言っているんですね。ですからコニー・フランシス自身の歌い方を見つけたということなんでしょう。

ということでボビー・ダーリン、コニー・フランシス、ニール・セダカの3人の中で最初に登場したのはコニー・フランシスでした。


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by hinaseno | 2016-11-24 12:55 | ナイアガラ | Comments(0)