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Talks About Music, Books, Cinema ... and Niagara


by hinaseno
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もしも「半径3メートル」のなかにその本がなかったならば(その2)


「かわいい」
「かわいい」
「かわいい」

この声があちこちで飛び交う中にいるのは(想像はしていたけれど)やはり照れくさいものがありました。もちろんかわいいのは僕ではなくてくまくまちゃんだけど(あたりまえだ)。
この話はまた改めて。こんなのばっかり。あったことを言葉にするのは時間がかかります。

さて、自宅の「半径3メートル」のなかの本棚から見つけた『ノーラ、12歳の秋』を手にした島田さん。

久しぶりにページをひらくと、物語の筋よりも、挿絵のほうに記憶が刺激された。高橋和枝さんというイラストレーターによる、自信なさげで、けれど、強い意志を感じるモノクロームの挿画は、ぼくが探している絵とかなり似ていた。

島田さんは高橋さんのことを調べ始めます。図書館で高橋さんが別の本に描かれた絵を見て「まさにぼくが求めていた絵」だと確信。
高橋さんのイラストをコピーし、そこにプリントアウトして切り抜いた詩の言葉を糊でひとつずつ貼ってみる。

とてもよかった。
言葉とイラストが響き合っていた。

この日から、のちに『さよならのあとで』という本の形になるまで3年近い日々がかかることになります。その間、島田さんにも高橋さんにもいろんなことがあり、何よりも東日本大震災という未曾有の出来事がありました。

島田さんの『あしたから出版社』でもっとも強い関心を持って読んだのはこの『さよならのあとで』に関する話。特にイラストを描かれた高橋和枝さんとの話はなんだか自分のことのように読んでしまいます。

島田さんは高橋さんにどうやって絵の依頼をしたらいいかを考えます。

本を一冊も刊行していない、純粋な意味で「無名」の出版社の仕事を高橋さんが引き受けてくれるかどうか、自信がなかった。

とにかく「本当のこと」を書いたメールを送ることにします。2日後に高橋さんから「検討します」との返事が帰ってくる。「まずはお会いしてお話を聞かせてください」と。

そして打ち合わせの日、スーツを着た島田さんは約束の場所に。作りたい本のことを一所懸命に話します。高橋さんは言葉をはさむことなく真剣に聞く。
そして、「自信はないけど、やってみます」と。

ただ、どうやら高橋さんはなかなか絵が描けなかったようです。確かに、あの詩にどんな絵を付けたらいいのか、その難しさは素人の僕でも理解できます。
島田さんは(資金の問題もあって)絵ができあがるのを待つことができなくて、文芸書の復刊を思いつきます。それがバーナード・マラマッドの『レンブラントの帽子』。表紙の絵を描かれたのは和田誠さん。
島田さんにとっては予定外のことだったかもしれませんが、僕にとってはこの本がまさに夏葉社に出会うきっかけになったんですね。新聞に載った和田誠さんの絵に目をとめたわけです。
もしもかりに新聞に『さよならのあとで』が写真付きで載ったとしても、僕は何も気づかなかった可能性が高い。縁というのは不思議なものです。

さて、高橋さんはやはり描きあぐねている状態が続いていたようですが、『レンブラントの帽子』が発売になるひと月ほど前にようやくすべての詩の言葉にあわせたイラストを島田さんのところに作ってきます。

 それは、オレンジと水色で描かれた、ある町の一日であった。雨が降り、夜が来て、人びとは、物思いにふけっていたり、ピアノを弾いたり、雨上がりの町を歩いたりしていた。
 一読して涙がこぼれた。

このオレンジと水色で描かれたイラストは後におひさまゆうびん舎で開かれた『さよならのあとで』原画展で見ましたが、本当に素晴らしいものでした。
特に雨上がりの町を歩く場面を描いた絵はすごく気に入って、買う絵を決めるときに最後まで悩みました。

ところが、島田さんはデザイナーの方がレイアウトした本を見ているうちに「なにかが違う」と感じる。もう少し「かなしみ」のようなものが欲しいと。
で、あらためて高橋さんに、モノクロであたらしいイラストを描いてくださいと頼むんですね。
高橋さんは相当困惑されたようです。「なにを描いたらいいかよくわからない」と。そして高橋さんから届いたのは「すこし時間をおいて考えさせてください」とのメール。

 高橋さんから、そういった内容のメールが届いたとき、ぼくはすっかり信頼を失ってしまったと思った。
 次に来るメールは、正式なお断りのメールかもしれないと思った。

しばらくして高橋さんからあたらしく描かれたモノクロのすばらしいイラストが届く。

ようやく形が見え始めてこの方向でとなってきたときに東日本大震災が起こる。『さよならのあとで』はストップしてしまう。

 ぼくは、従兄ひとりの死に自分の感覚を集中させて、この本をつくろうとしてきたが、三月十一日を境に、一万八〇〇〇人以上の人がいなくなってしまうと、自分がなにかをつくっているのか、さっぱりわからなくなってきた。自分が見ていた『さよならのあとで』の世界が、急に安っぽく見えた。

で、島田さんは被災地に足を運ぶ。

 ぼくには、自分のかなしみのことはわかるけど、ほかの人のかなしみのことはわからなかった。そう理解できたことが、いってみれば、被災地を見てまわり、いろんな人の話を聞いて、ぼくが学んだことであった。
 ぼくが従兄を亡くしてかなしんでいるということと同じように、たくさんの人がかなしんでいる。
 それらのかなしみは、とても似ているもののように思えるけれど、10万人の人がかなしんでいれば、10万人のかなしみは、すべて、それぞれ、違う。いつまでも、同じものにはならない。
(中略)
 ぼくは、その個別のかなしみに寄り添えるような本を、つくりたいのだった。

高橋さんもやはり震災の影響で描けなくなっていたようですが、『さよならのあとで』が出版されることになったことを紹介されたこの日の高橋さんのブログで高橋さんはこんなことを書かれています。

昨年の震災後、気持ちがふわふわと落ち着かなかったとき、
『さよならのあとで』のイラストを描くことから
まず始めました。
絵を描くと、そして紙にむかって手を動かすと、
気持ちがしゃんとする
というか、
地に足がついた感がすこし戻ってきました。

紆余曲折をへて2012年の1月、『さよならのあとで』の見本が届く。
それを見た島田さんが感じたのは満足ではなくて強い不安。さらに先程の高橋さんの複雑な心境を書かれたブログを読んで「胸が痛くなっ」てしまう。
島田さんは高橋さんから送られてきた100枚ほどのイラストの中から自分が選びとったものが果たして正解だったのかに強い不安を覚えたようです。
でも、正解なんてわからないですね。
確かなことは島田さんも高橋さんもこの本のために精一杯のことをされたということ、そして、僕をはじめ多くの人がその本に強く心をうたれたということ。
もしも「半径3メートル」のなかにその本がなかったならば(その2)_a0285828_1284079.jpg

by hinaseno | 2016-04-24 11:41 | 雑記 | Comments(0)