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小津は荷風の『断腸亭日乗』を見ながら『東京物語』のロケをしていた?


小津安二郎の『東京物語』の「撮影日程表」が掲載されていたのは小津安二郎を特集した『東京人』1997年9月号。
「撮影日程表」は、小津の映画のカメラマンであった厚田雄春の遺品を集めている「東京大学厚田文庫」の一部を誌上公開したものの中にありました。1ページを使って大きく。
この号は2年ほど前に手に入れて、特にその中に掲載された川本三郎さんの「いまひとたびの『東京物語』。」を読むために何度も手に取っていたはずなのに気がつきませんでした。なんともはや。
「撮影日程表」については詳しい説明はありませんが、どうやら厚田さんが日記などに書いていたものをまとめて作ったもののようです。ただ、ネットをみる限り、この「撮影日程表」に触れている人はほとんどいないようです。
川本三郎さんもたぶんこれに触れたエッセイは書かれていないはず。どうしてだろう。

『東京人』のこの号に掲載された川本さんの文章では、最後に『東京物語』に映し出された荒川放水路に触れて、小津と永井荷風の関係について書いています。
川本さんは以前から、小津が荒川放水路に着目したのは荷風の随筆を読んだからではないかという”仮説”を持っていたそうで、その証拠として出たのが1993年に出版された『全日記 小津安二郎』だったと。これについては以前にも紹介しましたが、小津は『東京物語』の撮影に入る前に連日、荷風の『断腸亭日乗』を読んでいたんですね。
で、昭和28年6月17日の日記に、荷風が何度も歩いていた場所が登場する「バスにて 東陽公園にゆき せんきの稲荷 砂町より葛西橋に歩く」と書かれていることを指摘。川本さんの”仮説”は6月19日までの日記だけでも十分証明されています。
でも、「撮影日程表」をみると、それを強烈に裏付けるものになっていました。証拠も何も、小津が『断腸亭日乗』を見ながらロケをしていたとしか思えないような内容。
その部分がここ。
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特に日記では失われてしまっている20日の記載がすごい。
多少文字が読み取りづらいのですが、読み取れるものだけを列挙すると「千住大橋」「北千住駅」「東武堀切駅」「荒川放水路土手」「四ツ木橋」。
これらは荷風の『断腸亭日乗』に何度も登場する地名ばかり。

昨年来、荷風の『断腸亭日乗』を読み続けてきてわかったことを。
川本さんは「いまひとたびの『東京物語』。」で、小津がロケハンをした場所は、荷風が主に昭和10年に歩いた場所と書かれていましたが実際には昭和7年の1月から3月にかけて歩いた場所が中心。

荷風の『断腸亭日乗』はこの時期に書かれていたものが最もわくわくします。さらにこの時期、荷風は歩いた場所で見た風景を『日乗』に描いていました。その絵がどれも素晴らしいんですね。川本三郎さんも『きのふの東京、けふの東京』で、その時期に書かれた荒川放水路の絵を二つ表表紙と裏表紙に使っています。
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小津もきっとこれらの絵に強く惹きつけられたはず。

ちなみにかの「偶然のよろこびは期待した喜びにまさることは、わたくしばかりではなく誰も皆そうであろう」で始まる荷風の随筆の中で僕が最も好きな「元八まん」の、「元八まん」こと砂村八幡宮を発見したのもこの昭和7年1月。発見したのは砂町の仙気稲荷の近く。
6月17日にはまさにその砂町の仙気稲荷に行っています。その後に行った荒川放水路にかかる葛西橋も荷風が何度も足を運び、絵に描いている場所。荷風の随筆や『断腸亭日乗』を読んだ人間であればだれもが一度は行ってみたい所です。
ただ、小津の日記ではその後こう書かれています。
「思ハしきところなし」

どうやら思っていたような風景はすでに失われてしまっていたようです。
というわけで、2日後、今度は荒川放水路のもう少し上流の千住大橋近辺に行ってロケをします。そして、堀切駅付近の荒川放水路で撮ったのが有名なこのシーン。
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このあたりも荷風は何度も歩いています。例えば昭和7年1月18日の日記。

乗合汽船にて吾妻橋に至り東武電車にて請地曳舟玉ノ井などいふ停留場を過ぎ堀切に下車す、往年綾瀬の川口より菖蒲園に行きし時歩みし処なり、電車停留場は荒川放水路の土手下に在り、堀切橋といふ橋かゝりて行人絡繹たるさま小松川の土手と相似たり、橋の欄干に昭和六年九月竣成と識したればこのあたりの交通開けたるは半歳前のことなり、見渡すかぎり枯蘆の茫々と茂りたる間に白帆の一二片動きもやらず浮べるを見る、両岸とも人家の屋根は高き堤防に遮られて見えず、暮靄蒼茫たるが中に電車の電柱工場の烟突の立てるのみ


あるいは昭和7年1月22日の日記。

今日は清洲橋の袂より南千住行の乗合自働車に乗りぬ、浅草橋駒形を過ぎ田原町辺より千束町に出で吉原大門前を過ぐ、日本堤は取除かれて平坦なる道路となれり、小塚原の石地蔵は依然としてもとの處に在り、こゝにて金町通の乗合自動車に乗替へ、千住大橋を渡り旧街道を東に折れ堤に沿ひて堀切橋に至る、枯蘆の景色を見むとて放水路の堤上を歩み行くに、日は早くも暮れて黄昏の月中空に輝き出でたり、陰暦十二月の十五夜なるべし、枯蘆の茂り稍まばらなる間の水たまりに、円き月の影盃を浮べたるが如くうつりしさま絵にもかゝれぬ眺めなり、四木橋の影近く見ゆるあたりより堤を下れば寺嶋町の陋巷なり


昭和28年7月19日にロケをした場所がずらりと並んでいます。

これほどまでに荷風の『断腸亭日乗』の影響を強く受けいていた小津が、荷風(と同時に、やはり小津が敬愛した谷崎潤一郎も)のいた岡山を意識しないはずがありません。
意識していたからこそ三石を「発見」した。これが僕の仮説。

そして「撮影日程表」にはそれをはっきりとうかがわせることが書かれていました。
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by hinaseno | 2016-04-10 14:45 | 映画 | Comments(0)