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by hinaseno
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「たねさん」に会いに行く(その3)


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「たねさん」が収められた『木靴』の創刊号は、8号までの『木靴』のうちで本の状態が最も悪く、下手をすればページがはずれてしまいそうなために、展示会のときも、それから展示会が終わって窪田さんに送っていただいたときもビニール袋に入れられていました。ということなので、創刊号は後回しにして他の号から読み始めることにしました。
いくつかの作品に「岡山」「吉井川」「西大寺」という言葉が出てきつつも、Fさんが生まれ育った町を確認できるような言葉を見つけることはできず、半分あきらめかけた気持で、最後に袋から取り出したのが創刊号でした。そしてそこに収められた「たねさん」という小説にははっきりと彼が生まれた場所を示す地名が書かれていました。
それだけでなく、この作品は8号までに収められたFさんの6つの作品の中で最も優れたもので、田舎の村を舞台にした小学生たちの様子を描いたその作品は、まるで木山捷平の新山を舞台にした小説を思い起こさせるものでもありました。

ということで、ぜひその作品を読んでもらいたいので、ここに「たねさん」の全文を書き写しておきます。

たねさん

 田舎の小学校の裏の竹薮に囲まれた丘の頂きに、権現様と呼ばれる小さな社がある。これは、子供の頃の私には、懐しいがひどく怖い神様だつた。
 権現様は平常は参詣人など殆どなく、上り段には両側から熊笹と漆の木が生え出していて、子供の頃毎年のように漆にかぶれた私には、夏など一寸通れなかつた。
 一体、部落には小さな祠までいれると、二十人近くの「神様」が戸を構えていて、それぞれに相応しい霊験を伝えていたが、権現様は特に疣が専門であつた。境内の小石を一箇拝借して来て、十五日間とか朝晩それで疣を撫でて、最後に糸で結んで引張るとぷつんと取れるというのである。幸い私にはその点の心配はなかつたので御厄介にはならずに済んだが果して如何なるものだつただろうか。借りたのを返す時には、それに加えて、河原で年齢の数だけ拾つて来るのである。それを怠つたり、汚い石を返したりすると、罰があたつて尚余計疣が出るといわれていた。
 また、この権現様には、「たねさん」と呼ばれる一尺足らずの木像が祀つてあつた。それを秋の祭の晩に、子供達が小学校の校庭で、投げたり蹴つたりして遊ぶのである。
 「たねさん」というのは、その木像を彫つて奉納した男の名前である。像は特別に何の神様とも伝えられてなかつたが男の立像だつた。今になつて思いついたのだが、ひよつとしたら、たねさん自身の像だつたかも知れない。
 たねさんは、祖母の話だと、幕末の頃何処からか部落に流れて来て住みつき、村の「ほうと」(一種の使い走り)をして、独り者で晩年を送つたのだそうだ。彼は筆もたち頭もあつたと伝えられているが、生れた国の名とそれを捨てた理由についてだけは、遂に世を終るまで誰にも明さなかつたといわれている。
 たねさんは、遺言として村の子供達に、この像を出来るだけ乱暴に扱うような遊びを続けて貰いたいと頼んだのだそうだ。恐らく、彼の一生は踏まれたり蹴られたりの連続だつたに相違ない。しかし、福元(私の部落)のひとびと、特に子供達からは、深く愛されていたらしい。
 ラグビーともサツカーともつかない、ただ際限もなく奪い合いをするだけの遊びである。今から考えると、あんな単純な遊びの何処が面白かつたのかと思えぬでもないが、子供の頃は結構夢中になつて暗がりの運動場を転げ廻つたものだ。しかし、それにしても、子供たちは自分の曾祖父の名すらろくに知らないのに、百年も異郷に語り継がれているというのは、一体如何いう人だつたのだろうか。
 私たちが遊び疲れて、おせつたいの豆餅を頂きに石段を上ると、いつまで経つても同じ調子で祝詞をあげる神職さんの後姿があつた。時々、村のお内儀さん達が、重箱に一杯のお茶をいれて来て、神職さんの後で拝んでかえつた。
 祖母は信仰深かつたので、私を横に正坐させて、自分が拝み終るまでは、絶対に動かせなかつた。祖母が帰りかけると私は石段の脇の熊笹を折つて持たせてやつた。村には牛神様という家畜専門の祠もあつたが、権現様の笹も牛馬に喰わせると病気にならない呪(まじな)いになるといわれていた。そんな時、祖母はきまつて、
「親にやあ敗けても、漆にやまけぬ。」
と唱えながら、あたりへ、ぺつぺつと唾を撒き散らして呉れたものである。祖母はそうすれば絶対に漆にはかぶれないで済むと信じていた。祖母は、弱虫で家に引込んでばかりいた私を、嗾しかける様にしては、こういう男の子の遊びに加わらせたものである。
 また、この「たねさん」には、不思議な言伝えがあつた。それは、「たねさん」が、どんな場所へ放り込まれても、独りで権現様の祭壇へ戻つて来るというのである。権現様の祭の晩には盗んできて柱に縛りつけておいても、朝までには脱けてかえつたとか、干田川(ほしだがわ)に放り込んだのが、途中から岸へ上つて歩いて戻つたとか、老人たちの話によると、奇蹟は何度起つたか知れないのである。私たちは、その奇蹟の故にも「たねさん」を敬い愛していた。
 自然の成行きとして、権現様の祭の前にもなると、子供たちは学校で他処の部落の子に、誇らしげにそれを喋つてきかせる。
 しかし、福元部落の子供は、親達が教えるのだから信じ込んでいるが、他処の子は簡単にそうはゆかない。なかに、自尊心の傷つけられるのに抗して、
「そねえな阿房げたことがあるもんか。」
というのがあるからだ。勿論、私たちは口角泡をとばして、部落の権威になりそうな大人の名を出しては、嘘でないことを力説する。それで大抵は納得する。
 ところが、五年生の時、どうしても本気にしない相手が現われたのである。その子は、大島君といつて、大阪からの転校生で、勉強もよく出来た。大島君は私を組の中心とみて、はじめは盛んにお世辞を使つてきていたが、私が喧嘩に甘いのを見てとると、急に対抗的な態度にかわつた。受持ちの先生からも、
「しつかり勉強せんと、三学期の級長は大島だぞ。」
と云われていたし、中には彼の機嫌を取り結ぶ子まであつて、私には容易ならざる相手だつた。
 その大島君が、がんとして、私の云うのは嘘だと云い張つた。他処の部落の子には、彼に賛成するものも出て来た。私は福元の子に囲まれて、精一杯の啖呵をきつた。しかし、都会育ちの大島君には口では敵いそうもなかつた。彼はしまいには、自分で持つて帰つて柱へ縛つてみると云い出した。それには私も思はずはつとしたが、平静を装つて、
「おう、やつてみい。罰があたつて疣だらけんなるから。」
と嘯いてみせた。すると流石にそれは思いとどまつたが、とにかく証拠を見せろといつてきかない。
 そこで、私は「たねさん」を薮の中へ投げ込もうと提案した。権現様の丘の周囲は、村有の深い竹薮になつていて、年に一度の薮垣修理の他には、何年も斧を入れたことがなかつた。それには、大島君も承諾した。
 学校が終つて、私たちはこつそり丘に登つて、「たねさん」を借り出した。私は必死の思ひだつたが、大島君は一目見るなり、
「なんや、不細工な人形やなあ。」
と事もなげに云つてみせた。
 私は漸く尻ごみをはじめた福元の同級生を制して、大島君に希望の方向を訊いた。そうして、崖の突つ先に立つて彼の指さす箇所をめがけて、力一杯抛つた。「たねさん」は、一度竹の幹にかちんと触れて落ちていつた。
 その晩は、床に就いても眠れなかつた。熱つぽい頭をころころさせながら、盛んに自問自答を続けていた。
 二時間も経つと、我慢が出来なくなつて、寝巻のまま、懐中電燈を持つて、便所に立つような振りをして出て行つた。私はその頃、かなり広い家に、祖母と使用人の朝鮮人夫婦とで暮していた。金(きん)の部屋は別棟になつていたし、祖母は腹の太い人だつたので、私が戸を開けて出る位のことを兎や角思うのではなかつた。
 私は子供の度胸試しの会でも、墓地のある堂山へ行つて盆提燈や花輪のかけら位持つて戻れたし、懐中電燈も持つていることだし、小学校位なら平気だつた。しかし、その自信も熊笹の繁つた石段の道にかかる頃から、変てこなものになつて来た。
「親にや敗けても、漆にやまけぬ。ぺつ、ぺつ。」
私は大声で怒鳴りちらしながら登つて行つた。
 社の中には、時々「おへんど」(乞食)が寝ていることがある。たねさんも、恐らくそういう一人で、この社をしばらくの住み家にしていたのではなかろうか。私はもどかしくて、土足のまま板の間に上つた。そうして、そおうつと、祭壇に懐中電燈を向けた。
 無かつた。「たねさん」は、何処にもなかつた。嘘だつたのだ。
「なんたらことなら。阿房たれ!」
小声だったが、力を入れて云つた。それは祖母が私を叱る時の口癖だつた。誰に向つて怒りをぶちまけてよいのか、しかとは分らなかつたが、もう一度大声でそれを繰返した。私は泣きたかつた。しかし、一人なので泣けなかつた。
 「たねさん」は明日の朝までには戻つて来るのかも知れなかつたし、そう考えられないこともなかつたが、私にはもうそんなことは大嘘だとしか思えなかつた。そうして私の心の底には、初めからそういう疑いも無いことはなかつたのに――と、それを押し隠せた虚栄心を呪う気持になつた。
 如何しようか、と思つた。明日の朝早く来て探そうかと考えた。しかし、大島君のことだから、明日は早く来るに違いないと思われた。
 私は漸くのことに心を決めた。懐中電燈を頼りに、藪の中へ入つて探すことにした。
 私はその前の年の春、従兄の悪童に誘われて、この薮の中へ筍を盗みに入つたことがあつた。河原の薮の囲いの外で掘つたのだと偽つて持つて帰ると、祖母が大そう喜んだ。その時の経験で、探し廻つても出口に迷う事はないと思つた。それに、投げた見当も大体のことは記憶にあつた。
 入口は、社の真後にあつた。入ると、薮はいきなり急な下り坂になつた。下駄では歩きにくかつた。しかし、踏み抜きの恐れがあつたので、脱ぐという訳にはいかなかつた。この薮では、昼間でも梟が鳴いていたし、子供達は狸の類いが巣を造つていると信じていた。私は竹の幹に掴まつて、懐中電燈で遠くまで照らして、何も居ないことを確めては進んだ。私が動くと、それにつれて竹の陰も動いた。時々、荒い羽音で私の肝を冷し乍ら、鳥が飛んで逃げた。
 「たねさん」は容易なことでは見付からなかつた。「こんなこと位(ぐれ)え、何へんたらありやあ」と口に出さんばかりにして云いきかせていたが、何時の間にか目からは正直なものが伝わつていた。
「たねさあーん。隠れんと、出て来て頂でえー。たねさあーん。堪えてつけえなあ。たねさあーん。」
私は哀れな声を出して怒鳴つた。
 「たねさん」は、見当よりは、はるかに丘に近い場所へ落ちていた。私は、ううーつと嗚咽になつて喉に突き上げて来るものを必死に堪えながら、夜露で冷たくなつた木像を寝巻の袖で何度も拭いた。
 「たねさん」を祭壇へ返して、神妙に坐つて手を突いて天罰のないことを祈つた。私は必要なら毎日河原から石を拾つて来てもよいと思つた。疣だけは、どうか赦して貰いたかつた。
 小学校の校庭を横切つて、校門に向つた時だつた。私は、慌てて懐中電燈を消した。精米所の向うに、見覚えのある提燈を認めたのである。
 私はそおーつと砂場の方へ寄つて、身体を松の幹に隠した。祖母と、金だつた。二人はかわるがわる私の名前を呼んでいた。私は突差に、二人が探し廻つて、近所の同級生から昼間のことを聞いたのだと悟つた。
 私の張りつめていた心は一時に溶けてきて、提燈の灯が急に潤んで見えたとおもうと、涙が両方の目から溢れてでた。
 私は二人をやり過ごすと、下駄を脱いで手に掴んで、一目散に走り出した。
                       (1956年6月1日発行『木靴』1号 所収)

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by hinaseno | 2015-05-23 14:17 | 雑記 | Comments(0)