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by hinaseno

道子よ、泣くな


木山捷平と更科源蔵のつながりを考えていて、ふと思いついたのが、ブログをはじめた頃、あの大西重利と木山捷平のつながりを調べていたときに知ったこの『南方詩人』昭和5年1月号の執筆者の中に、更科源蔵の名前があることを発見しました。
道子よ、泣くな_a0285828_12113438.jpg

『南方詩人』の執筆者の中には、後に木山さんの第1詩集『野』の序文を書いた小野整、赤松月船、坂本遼をはじめ、草野心平、黄瀛、林芙美子、そして大西重利など、木山さんとつながりのある人たちがずらりと並んでいます。
『木山捷平資料集』を見ると、『南方詩人』が発刊したのは昭和2年9月。木山さんは昭和4年1月号から参加(この号には木山さんの詩を一気に9つも掲載)。更科源蔵は昭和5年1月号から参加しています。

ネットに載っていた更科源蔵のこの年譜をみると、大正10年頃に詩を書き始め(木山さんとほぼ同じですね)、昭和2年に上京し、昭和3年に伊藤整のところを訪ねています。
ただ、翌昭和4年の春には北海道に戻って生まれ故郷である北海道東部の弟子屈で小学校の代用教員になっているので東京にいたのは2年ほどだったようです。
木山さん上京したのは昭和4年3月。姫路の菅生小学校での勤務を終えてすぐに上京したはずで、おそらくは上京してすぐに伊藤整らとも会っているだろうと思うので、木山さんが更科源蔵と会ったのは3月の下旬くらいでしょうか。ただ、会ったといっても、おそらくは一度か二度のことだったかもしれません。でも、きっとどこか気持ちが通じる部分があったんでしょうね。

年譜にも書かれていますが、更科源蔵は昭和6年に同じく詩の活動をしていた中嶋はなえと結婚。翌昭和7年の9月には長女道子が誕生しています。
更科源蔵はどうやら子供が生まれることを木山さんに手紙で知らせていたようで(お腹の大きくなった奥さんの写真も送ったようです)、木山さんも昭和7年に出した手紙では更科源蔵の奥さんの体の具合を心配するとともに「北海道の弟子屈で生れる子供の上に幸よあれ」との言葉を手紙で書いています。
で、その後、更科源蔵から子供が生まれたこと、その子が女の子で名前が道子であるということを手紙で知らされたようで、昭和8年に出した2通の手紙では道子ちゃんのことを気にかける言葉を書いています。

ところで「道子」ということで思いあたる木山捷平の詩がありました。『木山捷平全詩集』の「未発表詩篇」に収録されたもの。書かれたのはまさに昭和7年。ただし、タイトルが「やもめの歌」。
  やもめの歌

 道子よ、泣くな
 そら、窓にとまつて
 馬追ひがないてゐる
 あの声をおきゝ
 あれは
 おまへの母さんが愛した虫だ
 『馬追虫をきゝながら
 あなたのことを思つてゐます』と
 昔のたよりにあつたつけ
 なくな、道子よ
 そしてあの声をおきゝ
 母さんのやうにやさしいこゑだ
 さあさ、あれをきゝながら
 父さんと二人でねんねしな。

実は更科源蔵の妻はなえはかなり若いときに亡くなっています。ただし亡くなったのは7年後の昭和14年のこと。昭和7年のときにはもちろんまだ生きていて、同居もしていたはずで、亡くなる前年の昭和13年には次女の葉子も生まれています。
この昭和7年に書かれた詩に出てくる「道子」は、その年に生まれた更科源蔵の娘であることは間違いのないはず。もしかしたら何らかの事情で一時期別居していたことを更科源蔵から聞いたときに書いた詩なのかもしれませんが、それにしては数年後に起こったことを予見するような詩ですね。
いずれにしても、これでまた一人、木山さんの詩に出てくる人物を特定することができました。
by hinaseno | 2015-04-19 12:13 | 木山捷平 | Comments(0)