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by hinaseno

早春の小田川(5)― 君もエライ所に出かけたものだネ ―


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昨日、昭和35年の10月頃に行なわれた矢掛中学の同窓会で『平賀春郊歌集』のことを知ったのでは、と書きましたが「弁当」を読み返してみたら本が出版されて2年近く後に予約申し込みのビラが来たので為替を組んでおくったら現物が届いたと書かれていました。「弁当」は物語の形になっているので事実かどうかはわかりませんが。

さて、木山捷平は『平賀春郊歌集』を手に入れ、その「編集後記」を読んで平賀春郊と若山牧水の関係を初めて知ります。こう書かれているようです。
平賀先生は延岡中学校第一回卒業生で若山牧水先生と同窓で、且又牧水先生の最も親しい友人の一人として、牧水先生と同様酒を愛したことに於ておくれをとらなかったことも治(あまね)く人の知る所である。

で、歌集の年譜を見ながら平賀春郊の生涯を辿っていきます。年譜を引用しつつ、ところどころ木山さん自身の「筆者注」も。たとえば、
明治41年9月 平賀節と結婚(筆者注、これはムコに行ったものと解釈される)

僕は最初、平賀春郊という名前を聞いて、しかも歌人ということだったので、このブログでも何度か紹介した平賀元義と関係があるのかと思っていたのですが、出身地も含めて全く関係ありませんでした。
『若山牧水書簡集』の、牧水が書いた宛名で確認すると、平賀春郊の最初の名前は大内財三(さいぞう)。明治35年に鈴木家の養子となり名前が鈴木財三に。さらに明治39年の手紙からは「財三」が「財蔵」になっています(ときどきは財三)。
手紙の中の呼び名では「鈴木兄」、「財三兄」、「財蔵兄」と変わり、明治40年10月の手紙で初めて「春郊兄」という言葉が出ています。

木山さんが引用したものでは「明治41年9月 平賀節と結婚」となっていますが、どうやらそのときは平賀家との養子縁組だったようで、節と実際に結婚したのは明治42年6月。ということで、それ以後から宛名は平賀財蔵になります。でも、ときどき「財三」になったり、あるいは「財造」になったり。
平賀春郊という名前を宛名に書きだしたのは明治45年3月の手紙から。それからは平賀春郊か平賀財蔵の両方の名前を使っています。
矢掛町にいるときには「岡山県矢掛町 平賀春郊様」しか書かれていないときもあって、本名でもないし、番地も書かれていないし、よく届いたものだと思います。

さて「弁当」にはこんなことが書かれています。
岐阜県斐太中学時代の歌に、
つとめやめて京にいなむと思ひつついとしかりけり高山の子ら
というのがあり、
新潟中学時代の歌に、
けふもまた論語教へてかへるさの信濃川辺によしきりがなく
というのがあるが、正介はよんでいてこれらの歌は先生の気持の動揺と受け取られてならない。もっとつっこんで言えば、延岡中学校の同級生だった若山牧水のような自由人に先生はなりたがっていたのではないか、だがそこはムコのかなしさも手伝って勝手な自由がきかなかったのではないかと想像される。

平賀春郊は明治45年に東京帝国大学を卒業し、最初に赴任したのが岐阜県斐太中学校、それから新潟県新潟中学校、さらに郷里の宮崎県宮崎中学校に赴任しています。

『若山牧水書簡集』の牧水の手紙を読むと、この時期、平賀春郊は牧水に歌集を出してもらおうといろいろと働きかけをしていたことがうかがわれます。牧水もそれを実現しようと努力しつつも、お金の問題など困難な状況があって実現できないままでいたようです。
そんなときに平賀春郊は郷里の宮崎を再び離れて岡山の矢掛中学校への赴任が決まります。これには牧水も驚いたようで、春郊が矢掛に赴任してまもない大正9年4月4日にかなり長い手紙を書いています。この日の手紙は個人的には最も心打たれるものでした。
春郊の歌集を出してあげることの出来ないままになって、しかも牧水にとってはきっととんでもない場所に春郊が赴任することになった責任も感じているようで、文面に申し訳ない気持ちがあふれています。
手紙は「平賀君、かきにくい手紙だが思いきつて書いてみる」という言葉から始まります。こんなことが出てきます。
 君もエライ所に出かけたものだネ。思ひもかけぬ所だつたので少なからず驚いた。何か縁故があつて行つたのかネ。延岡よりも田舎らしいぢアないか。家族も一緒か、それとも独りだけかネ。苦笑する様なせぬ様なツラをしてその田舎町を逍遥してゐる君の風ボーがよく心に映る。落ちつくことが出来たら幸ひと思ふ。

そして懸案の春郊の歌集の話も。
 歌のことを云へば、君の印刷した原稿を大変失礼してゐるが、あれはどうしやうね。今さらどうしやうも無いものだけれど、かなり時もたつてゐるので、とにかく相談する。そちらからでも一冊にして出すかネ、創作社でたつてもいゝ。とにかく来月の末あたり暫く上州の温泉に行つて自分の編輯をやるつもりだからその前に一緒に先日来の君のを纏めて見て来よう。ほんとに済まなかつた。

「君の印刷した原稿」という言葉があるように春郊は自分の歌集を出版してもらうために自分自身で印刷して作成したものを牧水に送っていたようです。でも、結局それぞれが生きているときにその歌集が作られることはありませんでした。ただ、春郊は牧水に対して裏切られたという気持ちは最後まで持たなかったはずですが。

こういう手紙を木山さんが読んだらどんな気持ちになったでしょうか。木山さん自身も文学者としての道を歩みたいとは思いつつ、実際には教師の仕事をしていた時期もあるので、春郊の気持ちは痛いほどわかったでしょうね。

さて、牧水は翌大正10年の1月に、宮崎に帰省するついでに春郊のいる岡山の矢掛を訪ねてみたいという手紙を書き送ります。
by hinaseno | 2015-03-31 13:42 | 木山捷平 | Comments(0)