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by hinaseno
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「築地川倶楽部」と「みかんいろしたヒッピーちゃん」


そういえばと思って久しぶりに『東京人』2014年4月号に掲載された川本三郎さんの文章を読み返しました。
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大瀧さんの追悼特集に掲載された文章ですね。大瀧さんの成瀬研究の話を中心に、大瀧さんとのエピソードをいくつか紹介されています。
大瀧さんとお会いされたときの最初のエピソード。
 はじめ、大瀧詠一さんが子供時代を岩手県の花巻で過ごしたというので、花巻といえば昔、花巻電鉄という、車体の幅が極端に狭く、正面から見ると馬のようなので「馬面電車」という鉄道が走っていましたね、映画にも出てくる、というと、大瀧さんは即座に。新藤兼人監督の『銀心中』(1955年)ですね、と応じた。
 これは凄い、とその瞬間に思った。映画評論家でも、花巻電鉄と言って、すぐに『銀心中』の名を挙げる人はまずいない。この人は、昔の日本映画に詳しいとすぐに分かった。
 そのあと、『銀座化粧』と『秋立ちぬ』のロケ地の話になったのだが、その詳しいこと、詳しいこと、驚嘆した。

おそらくこの花巻の話の流れで宮沢賢治のこと、さらには村山新治監督の『風の又三郎』の話をされたのではないかと思います。また、いつの日かそのあたりのことを川本さんが書かれるのを楽しみに待つことにします。
『日本の軽便鉄道』に載っていた馬面電車の写真を貼っておきます。
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さて、このブログでもずっと前に触れたことですが、大瀧さんは『銀座化粧』と『秋立ちぬ』のロケ地探しで築地川周辺を何度も歩かれていて、「築地川倶楽部」という会を作ってそのバッジまで作られたんですね。で、川本さんに「名誉会員」と記したバッジを送られていました。今回、久しぶりに『東京人』を読み返したら、なんと大瀧さんが川本さんに送られたそのバッジの写真が載っていました。びっくり。
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川本さんはそのバッジをビニール袋から出すことなくしまわれていたようです。ビニールの口をとめる紙にもバッジと同じデザインがなされています。もちろん築地周辺の地図をデザインしています。
さて今は失われてしまっている築地川がはっきりと描かれているこの地図、いつ頃のものだろうと調べたら、どうやら明治43年のこの地図をもとにしているようです。
a0285828_1263069.png

この地図、築地川にかかる橋が詳しく記載されています。おそらく大瀧さんもこの地図を参考に歩かれたはず。

さて、川本さんのこの文章の最後は、大瀧さんとの最初の出会いのことが書かれていいます。『マイ・バック・ページ』に載っているあのエピソードです。
 1971年の8月、「朝日ジャーナル」の記者をしていたとき、前年のウッドストックのロック・フェスティバルに刺激を受け、日本でも、岐阜県の中津川で「フォーク・ジャンボリー」が開かれ、その取材に行った。
 夜を徹しての野外コンサートだった。
 明け方、会場の若者たちが眠りかけたとき、突然、舞台で演奏をはじめたグループがあった。大瀧詠一さんの属する、はっぴいえんどだった。

せっかくなので『マイ・バック・ページ』のその部分を引用しておきます。
 夜の十時ごろだったろうか、会場は混乱の極に達し、ついに主催者は音楽集会の中止宣言をした。それでまた混乱が拡大した。しかしそのころには私はもうこの音楽集会は中止になったほうがいい、失敗こそ意義があると思うようになってきた。ロックhs、ベトナム戦争体験の生まれ育ってきたアメリカの若い世代の音楽だ。生ぬるい日常のなかに生きているわれわれにはロックのよさはわかりはしないのだ……。
 集会は中止になった。私はそれから会場の若い世代を何人も取材してまわった。「中止をどう思うか?」「ロックをどう思うか?」、いや最後は「全共闘運動をどう思うか?」「君はなぜバリケードにいないでこんなところにいるのか?」と挑発した。「お前こそこんなところで何をしているんだ。『朝日ジャーナル』なんてもう体制側の雑誌じゃないか」と彼らは私に喰ってかかってきた。お互いに興奮して怒鳴り合った。おそらく私は日常的な仕事場でのプレッシャー、第二組合視されるジレンマのしんどさを若い世代にぶつけていたのだろう。
 こんな状態が夜中まで続いた。しかし午前三時ごろになるとさすがにみんな疲れてきて混乱はぽつんぽつんと自然におさまり始めた。みんなマットや寝袋で眠り始めた。私もそろそろ山の下の宿に帰ろうとした。その時、サブステージで突然演奏を始めるグループがいた。もはや混乱も怒号もなかった。大多数の観客は眠りこけていた。わずかにまだ元気のある若者たちがそのステージの下に集まり始めていた。少数のいわば選ばれた者たちに向かってそのグループはエキサイティングに、しかし、同時に冷静に演奏を続けた。凄いグループだなと感激して私は彼らのステージを見続けた、それははっぴいえんどだった。
「そらをせんそうで汚す国 そっからきたコーラにしがみつく みかんいろしたヒッピーちゃん それがどうしようもないおれたち」
 ”はっぴいえんど”のその歌が、会場をおおっている気分にいちばん合っていた。彼らの歌を背中で聞きながら私と後輩のM君は夜明けの道を下って会場を去った。

興味深いのは川本さんがこのとき聴き取った曲の歌詞。
 そらをせんそうで汚す国 
 そっからきたコーラにしがみつく 
 みかんいろしたヒッピーちゃん 
 それがどうしようもないおれたち

正確にいえばこういう歌詞の曲ははっぴいえんどにはありません。でも、おそらくは「はいからはくち」という曲。作詞はもちろん松本隆さん、そして作曲は大瀧さん。
「はいからはくち」にはこんな歌詞が出てきます。
 ぼくははいから血塗れの空を
 玩ぶきみと こかこおらを飲んでいる

 きみははいから唐紅の
 蜜柑色をしたひっぴーみたい

松本さんが書いた「はいからはくち」には戦争とか安保とかという意識はおそらくはどこにも入り込んでいなかったはずですが、川本さんはその場の雰囲気の中で、あのように、実際にはない言葉まで聴き取ったんですね。
ちなみにこれは『朝日ジャーナル』時代の川本さんの写真。
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by hinaseno | 2015-01-07 12:13 | 雑記 | Comments(0)