細かいあらすじは省きますが、なんと白壁に落書きをした犯人に岩助がされてしまうんですね。受持ちの土井先生の誘導尋問のような長時間の「取調べ」によって。
土井先生による激しいののしりの言葉と暴力を受けた後、ようやく解放された岩助は家に戻ってすぐに「うけとり」に向かいます。
「やり場のない忿怒」が体を激しく襲う中、夢中になって歩いていたら、いつの間にか寺の白壁のある場所までやってきていました。そしてその怒りをぶつけるように壁に落書きをはじめます。
大バカ
バカヤロー
土井安太!
バカヤロー
それから、土井先生が新任の女の先生とひそひそ話をしていたのを思い出したので、こう書き加えます。
土井安太
山川タキ子
ショウカシツ ノ スミデ
…………シタ
さらにはその場面の絵も書き添えます。
で、最後はこう終わります。
それだけ書くと、幾らか胸がすっとして来た。彼は手に残った粗朶炭を叢の中に投げ棄てて、もう一度あたりを見廻した。やはり誰の姿も見えなかった。
岩助は地べたに置いていたうけとりの竹籠を手につかむと、一目散に――まるで一疋の野猪のように松林の中に駆け上って行った。
ところで、この『うけとり』、最初に雑誌(『海豹』昭和8年)に掲載されたときは最後にこんなことが書かれていたことを最近知りました。
もちろん、二人の小さな恋はそれきりで終りを告げた。やっと高等学校を卒業すると、岩助は一小作百姓となって、野良労働に従った。セイはマッチ工場の女工となって神戸へはたらきに出たが、青く痩せて村に帰って来て、間もなく死んで逝った。寺の住持がお経をあげて、彼女はその裏の松林に葬られた。
さうして、二十年の歳月が流れた。一人前の大人になって一家の主になりさへすれば、嫌なうけとりからは解放されて、仕事をすることが気楽になるであらうと考へてゐた岩助の夢想は外れた。彼は今、年老いた父母と共に、山岡善右衛門の小作一町歩のうけとりをしてゐるに過ぎない。
しかも、そのうけとりは、子供の時の山行きなどの比ではなく、年と共に負担を加へ労苦を増していくばかりである。が、岩助はどうかするとあの時のことを追想して、僅か二週間に過ぎなかったとは云へ、真に歓喜そのものの中に飛び込んで松葉を掻き集めたあの悦楽を思ひ出す。あのやうに楽しく、「うけとり」を忘れた労働がして見たいと、彼は切に希みながら、野良の生活を暮してゐる。よき白壁あらば「落書」したいそのたまらない意欲をぐっと胸におさへて――。
岩助の現在の様子が描かれていたんですね。なんとなく芥川龍之介の『トロッコ』の最後の部分を連想させる終わり方。でも、結局、その数年後に単行本に収録されるときにその部分は削られて現在文庫本に収められた形になったようです。
ちょっと驚いたのは「セイ」のその後のこと。彼女は神戸のマッチ工場に女工として働きに出て、その後、体を壊して村に戻ってきて間もなくなくなったとの話。
神戸のマッチ工場といえばすぐに浮かぶのは、「おしの」という女性が登場する次の2つの詩。まずは昭和3年に書かれた「おしのを呑んだ神戸」。第一詩集『野』に収録されています。
おしのを呑んだ神戸
にくい汽車!
おしのの乳房までものせて
上り列車は汽笛をふいた。
神戸へ!
神戸のマツチ工場へ!
さびしいか? おしの
さびしいのに何故行くんだ?
神戸へ!
神戸のマツチ工場へ!
列車は発車した
おしのの乳房までものせて、
にくい神戸!
神戸はおしのを呑んでしまつた。
俺あひとり
田圃の中の停車場にのこされた。
それから翌昭和4年に書かれた「神戸のマツチ工場から帰つたおしの」という詩。こちらは第二詩集『メクラとチンバ』に収録されています。
神戸のマツチ工場から帰つたおしの
柿の下の野風呂に入つて
おしのはどんぶり首まで沈んでゐた。
――おしのさん、たいちやろか?
――いいえ、えいあんばい!
神戸のマツチ工場から帰つたおしのは
久し振りのやうに空を仰いでゐた。
――きれいなお月さんぢやな!
――きれいなお月さんぢやろ!
柿の繁みの間から
お月さんも久し振りにおしのを見てゐた。
――おしのさん、神戸はえいとこかい?
――………………
おしのはめつきりやせてゐた。
そして青白くなつてゐた。
――おしのさん、もう神戸なんかへ行かんとけよ。
――ええ、もう神戸なんかへ行かんわ。
どこやら向うの石垣で
チンチロリンがないてゐた。
こういうのを読むと、「セイ」=「おしの」にあたる女性が実際にいたのかと考えてしまいます。あるいは「土井先生」のような先生が実際にいたのかとか、さらには岩助が白壁に落書きをしたエピソードは木山さんの身に実際に起こったことなのかということも。
で、これに関してはもう一つ興味深いエッセイがあります。それは次回に。