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by hinaseno

木山さんに呼ばれて、秋の新山へ


先日立ち寄った古書展で手に入れたもう一冊の本は『高梁川』という雑誌でした。
最初、本棚に何冊か並んでいる『高梁川』という雑誌を見つけたとき、確かこの雑誌の何号かを以前ネットで探したことがあったなと。いろいろ記憶を呼び戻して、姫路時代の木山捷平に関する論文が収録されていた雑誌だったということを思い出しました。でも、何号かは忘れてしまったので、一冊ずつ手に取って目次を見ていたら、それが見つかりました。

「木山捷平大正11年のハガキ」と題された論文。著者は庄司利治という方。掲載されていたのは昭和49年8月31日発行の『高梁川』第31号。十冊程しか並べられていなかったものの中に、これがあったなんて本当にラッキーでした。

この論文のことは定金恒次著『木山捷平の世界』(岡山文庫 平成4年)に触れられていました。例の「姫路市南畝町228」に関するもの。大正11年に、当時姫路師範学校に通っていた木山さんが故郷の恩師にあてた手紙に記載されていた住所が「南畝町228」。昭和2年に木山捷平が姫路で発行していた『野人』の発行所の住所である「姫路市南畝町288」。
「南畝町288」に関しては、昭和2年に書かれた「秋ーー大西重利にーー」の大西重利の家族が住んでいたことがわかったのですが、その5年前の大正11年には大西重利はまだ結婚してもいなければ姫路にも住んでいません。しかも古い地図で確認したところ「南畝町228」という地番は存在しないこともわかりました。

とすると、まず最初に考えられたのが、定金恒次氏が引用した庄司利治氏の論文に記載された住所を写し間違えたのではないかということ。それから庄司利治氏が木山捷平の研究者ならば、「南畝町」という住所にピンと来るものがあって、何か調べられてはいないだろうかということ。それを確認するために『高梁川』を一度探してみたのですが、いろいろとばたばたしているうちに1年ほど経ってしまい、すっかり忘れてしまっていました。

さて、『高梁川』に掲載された庄司利治氏の「木山捷平大正11年のハガキ」、そこにははっきりと「姫路市南畝町二二八」と記載されていました。定金氏の写し間違いではないことが確認できました。それから庄司氏の論文には『野人』の発行所の住所「南畝町288」にも触れてはいませんでした。

というわけで「南畝町228」という住所の謎は残ったまま。
あと考えられることとしては、木山さんが書いた住所が、もしかしたら「二二」ではなく「一三」あるいは「三一」になっているのを庄司氏が「二二」と見間違えた、あるいは庄司氏が「一三」あるいは「三一」と書いたものを活字に直した人が「二二」と見間違えた、という可能性もありうるかなとは思いつつ、やはりその実物を見なければと考えて、笠岡の町、そして木山さんの生家のある笠岡の北の新山の村(現在は笠岡市山口)に行ってきました。
『高梁川』を発見できたのは、きっとこれまでも何度かそうであったように、木山さんが呼んだんだろうなと。季節はやはり「秋」でした。
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by hinaseno | 2014-11-05 11:21 | 木山捷平 | Comments(0)