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ノンちゃんが手にしていた『文藝春秋』と旭川の鉄橋のこと


ここ数ヶ月、画面のちらつきが断続的に起きて、ひどいときにはとても作業ができない状態に落ちいっていたiMacをついに修理に出すことに。で、久し振りに、デザインがかわいくて手放さないでいた古いMacBookを取り出してみたら、結構使えることがわかりました。聴けない音源、見れない映像がいくつかあるのは仕方ないけど、でも、わりとさくさく使えています。というわけで、このMacBookを使っての初めての投稿。これが使えなければブログを一週間ほど休まなくてはと思っていたので安心しました。

ところで、ひと月前にたまたま立ち寄った古書展でいいものがゲットできたので、同じような古書店が、また同じ場所で開かれていたので行ってきました。で、今回もいくつか興味深い本をゲット。こういうのって行ってみるものなんですね。

まず見つけたのが古い『文芸春秋』。そういえばと思って数十冊ほど置かれていたものの表紙を一冊ずつ見ていたら、おっというものが。
これですね。
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この日のブログで書きましたが、『早春』には主人公をインテリに設定しているのでかなりたくさんの本が出てきます。画像を静止したり、取り込んだ画像を拡大しながらようやく1冊だけわかったのが『文藝春秋』でした。この場面でノンちゃんこと高橋貞二さんが手にしているもの。
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これを確認するためにネット上で古い『文藝春秋』の画像を調べていて、これはと思ったのが、まさにこの号の『別冊 文藝春秋』でした。昭和25年5月発行。昭和30年に、おそらく岡村書店から取り寄せた古本としては年代的にもぴったり。

やった、と思って家に戻って改めて画像を見てみたら、どうも右手の感じが違うかなと。それから映画の方の『文藝春秋』はもう少し大きそう。映画で使われたのは『別冊』ではないのかな。

それはさておき、この号は「小説二十人集」と題されて、なかなか興味深い作家の名前が並んでいました。そしてその中に藤原審爾の作品も。タイトルは「啾聲落つ」。小説というよりも随筆ですね。冒頭、岡山市内の病院に入院していた頃の話が出てきます。東京の大学に入ったけれども、体調を崩して戻って間もない頃の話。
 昔、かれこれ十年前になるが、わたしは自殺をしかけたことがある。最初発病した頃で、独りぼっちの入院生活を送るうちに絶望に憑かれ、死のうとしたものだ。やはり今のような春の半ばのある暁方、ほの白い町へ病院から抜けだした。病院から四五丁離れたところに山陽線があり、その線路を一丁余り歩くと、百米程の鉄橋がある。眠られぬ夜などいつもわたしは病院のベッドで、その線路を通過する列車の音を聴いていた。その鉄橋で死のうと夢中で決め、わたしは、まだ人通りの無い道を急いだものである。空が靄に包まれながら白々と明けきった頃、途中で拾った三尺あまりの棒を持ったわたしはようやく鉄橋へたどりついた。そして四丈あまりある高さの鉄橋を、わたしはゆっくり歩いていった。ところが折悪しく、その時刻に列車がやって来ず、とうとう百米程の鉄橋のレールの間の、ところどころは欠けている朽ちかけの古い板を踏みながら、渡りきってしまった。渡りきり二三分歩いてから、はじめて列車の轟音が近づいて来た。わたしは急に下を向き栗の枕木の間に詰った石くれを凝視て急いだ。その時のことである。汽笛が高く鳴り近づきながら、刃物をひるがえすように断続し始めた。その刹那に、わたしはいつでも死ぬことが出来るという確信を、ふいに持った。その気持とほとんど同時に、どうしたものか、わたしは線路のうえから飛びだした。瞬間手にしていた棒が列車に激しい勢いでもぎ飛ばされた。

この話、藤原審爾の自伝的小説『愛と孤独の昼と夜』(昭和41年)にも出てきて、そのときには創作かなとは思ったのですが、どうやら実話だったようです。

ちなみに、この鉄橋は旭川にかかる鉄橋。ここも、僕の気になる作家が書いた作品の舞台になっています。
永井荷風の『断腸亭日乗』でも、例の岡山空襲の日に荷風はこの鉄橋まで逃げてきたことを書いています。昭和20年6月28日の日記。
余は旭川の堤を走り鉄橋の近き河原の砂上に伏して九死に一生を得たり。

それからなんといってもここは内田百閒の『阿房列車』にも出てきます。何度も引用した「鹿児島阿房列車 前章」の「古里の夏霞」ですね。ちょっと長くなりますが、姫路から岡山駅までの部分をすべて引用しておきます。馴染みのある場所が次々に出てくるので。
 朝になってから通る京都も大阪も丸で知らなかった。姫路を出て上郡を過ぎ、三石の隧道が近くなる頃に漸く目がさめて、気分がはっきりした。郷里の岡山が近い。顔を洗って朝の支度をした。
 三石の隧道を出て下リ勾配を走り降り、吉井川の川中で曲がった鉄橋を渡ってから、備前平野の田圃の中を驀進した。
 瀬戸駅を過ぎる頃から、座席の下の線路が、こうこう、こうこうと鳴り出した。遠方で鶴が啼いている様な声である。何年か前に岡山を通過した時にも、矢張りこの辺りからこの通りの音がしたのを思い出した。快い諧音であるけれども、聞き入っていると何となく哀心をそそる様な気がする。
 砂塵をあげて西大寺駅を通過した。じきに百間川の鉄橋である。自分でそんな事を云いたくないけれど、山系は昔から私の愛読者である。ゆかりの百間土手を今この汽車が横切るのだから、一寸一言教えて置こうと思う。
 百間川には水が流れていない。川底は肥沃な田地であって両側の土手に仕切られた儘、蜿蜿何里の間を同じ百間の川幅で、児島湾の入口の九蟠に達している。中学生の時分、煦煦たる春光を浴びて鉄橋に近い百間土手の若草の上に腹這いになり、持って来た詩集を読んだと云うなら平仄が合うけれど、私は朱色の表紙の国文典を一生懸命に読んだ。今すぐその土手に掛かる。
「おい山系君」と呼んだが、曖昧な返事しかしない。少しくゴヤの巨人に似た目が上がりかけている。
「眠くて駄目かな」
「何です。眠かありませんよ」
「すぐ百間川の鉄橋なんだけれどね」
「はあ」
「そら、ここなんだよ」
「はあ」
 解ったのか、解らないのか解らない内に、百間川の鉄橋を渡って、次の旭川の鉄橋に近づいた。
 車窓の左手の向こうに見える東山の山腹の中に、私はさっきから瓶井(にかい)の塔を探しているが、間に夏霞が罩めて、辺りがぼんやりしている所為か、見つからない。子供の時いつも眺めて育った塔だから、岡山を通る時は一目でも見たい。瓶井と云うのは、本当は「みかい」なのだが、だれもそうは云わない。訛りなりに、「にかい」の塔と云うのが固有名詞になっている。岡山では何でも「み」が「に」に訛ると云うのではないけれど、私なぞ子供の時に云い馴れたのは、歯にがき、真鍮にがき、玉にがかざれば光なし、と覚えている。抑も先生がそう云って教えたかも知れない。
 旭川の鉄橋に掛かる前、やっと霞の奥に塔の影を見つけた。
 旭川の鉄橋を渡ると思い出す話がある。岡山の人間は利口でいやだと他国の人がよく云う。その実例の様な話なのだが、小さな子供を負ぶったお神さんが鉄橋の上を渡っていると、汽車が来て逃げられなくなった。非常汽笛を鳴らしている機関車の前で、お神さんは手に持った傘をぱっと開き、ふわりと下の磧に飛び下りた。尻餅ぐらいはついたかも知れないけれど、背中の子供も共に無事だったので、車窓からのぞいて固唾を嚥んでいた乗客が一斉に拍手したそうである。私の子供の時の事で古い話だが、傘をひろげて飛んだのは、後の世の落下傘と同じ思いつきである。
 もっと古い、私などの生れる前の話に、傘屋の幸兵衛と云う者があって、瓶井の塔から飛行機の様な物に乗って空に飛んだそうである。発動機がついていたのではないだろうから、滑空機(グライダア)の趣向だったのだろう。瓶井の塔は高いから、暫らく宙を飛んで、原尾島と云う村まで行き、毛氈をひろげてお花見をしている所へ落ちた。落ちても無事だったのだと思われる。お花見の人人が驚いたのは云う迄もない。後でお上から、人ノ為サザル事ヲ為シタル廉に依リと云うわけで叱られて、お国追放に処せられた。
 汽車が旭川鉄橋に掛かって、轟轟と響きを立てる。川下の空に烏城の天守閣を探したが無い。ないのは承知しているが、つい見る気になって、矢っ張り無いのが淋しい。空に締め括りがなくなっている。昭和二十年六月晦日の空襲に焼かれたのであって、三万三千戸あった町家が、ぐるりの、町外れの三千戸を残して、みんな焼き払われた晩に、子供の時から見馴れたお城も焼けてしまった。
 森谷金峯先生は私の小学校の時の先生であった。金峯先生の御長男は今岡山の学校の校長さんである。空襲の晩、校長森谷氏は火に追われて、老母を背中に負ぶって、旭川の土手を鉄橋の方へ逃げた。そのうしろで炎上するお城の大きな火焔が天に冲し、振り返れば焔の塊りになった天守閣は、下を流れる旭川の淵に焼け落ちて、土手を伝って逃げ延びる足許をその明かりが照らした事であろう。背中の老母は金峯先生の奥様である。よく覚えていないけれど、子供の時にお目に掛かった事があるに違いない。もう一度車窓から眺めて見ても、その辺りの空は白け返っているばかりである。
 鉄橋を渡ったら、じきに岡山駅である。ちっとも帰って行かない郷里ではあるが、郷里の土はなつかしい。停車の間、歩廊に出てその土を蹈み、改札口の柵のこちらから駅前の様子を見たが、昔の古里の姿はなかった。

これは『別冊太陽 内田百閒』に載っていた旭川にかかる鉄橋の写真。
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というわけで古書店で見つけた『別冊 文藝春秋』から長い話になってしまいました。
で、もう一冊見つけた雑誌が実は「わおっ×4」だったのですが、それは次回に。
姫路時代の木山捷平のことを知る上で、ぜひ一度は見ておかなければならない文章が載っている雑誌でした。
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by hinaseno | 2014-11-03 12:27 | 雑記 | Comments(0)