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by hinaseno
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昭和20年6月、荷風、藤原審爾の家の前を歩く


前からひとつ気になっていたのは、木山捷平が満州に行くことが決まって、それを母親に伝えるために郷里の笠岡に帰省したついでに藤原審爾の家に立ち寄っているのですが(そのときに例の一升瓶を頼んだんですね。書いた原稿も持っていったかもしれません)、このとき藤原審爾は岡山市内のどこに暮らしていたのだろうかと。僕の持っているどの資料にも書かれていません。
『新日本文学全集 水上勉 藤原審爾集』(集英社)に載っている昭和12年から、昭和23年に上京するまでの年譜はこうなっています。
昭和12年(1937) 16歳
 閑谷学校在学中、祖母と死別。爾来、独りで暮す。この晩秋、はじめて小説をかき、校友会雑誌に投稿するも、とりあげられず、かえって担任教師に怠弱なりと叱られる。

昭和15年(1940) 19歳
 ようやく文学に関心を持ちはじめ、外村繁に師事する。上京して青山学院に在学していたが、肺結核で羽織れ中退、以来各地で療養する。

昭和18年(1943) 22歳
 小康を得て、岡山市に落着く。前年徴兵検査を受けるも病気のため兵役に関係なし。同人雑誌『曙』を仲間と発行。用紙事状次第に悪化し、割当をもらうために県庁に日参する。

昭和20年(1945) 24歳
 六月の岡山空襲で焼け出される。備中吉備津に避難、のち倉敷市千秋座通りに移る。敗戦と同時に同人雑誌『文学祭』を発行、習作「煉獄の曲」を発表する。この同人雑誌は発売一週間で売切れとなる。

昭和21年(1946) 25歳
 師外村繁の推挙で「破倫」を『素直第二輯』に発表。「永夜」を『新潮六月号』に、「初花」を『新生十二月号』に発表。

昭和22年(1947) 26歳
 「あたたかく近しく」を『文壇十月号』に、「秋津温泉」を『人間別冊号』に、「花のしとね」を『改造十二月号』に発表。千秋座という劇場の隣の家に移ったが、その移転先が特飲街裏で、また落着ける環境ではなかった。

昭和23年(1948) 27歳
 五月、岡山より上京、作家生活に入る。

倉敷にいたときの住所がわかっているみたいですが、岡山市内の住所は不明。木山さんとかとやりとりした手紙、あるいは木山さんの「ねんねこ」という作品を掲載した『曙』という雑誌を見ることができれば住所が確認できそうですが。

『愛と孤独の昼と夜』などを読むと、藤原審爾と考えられる主人公は16歳、中学4年のときに祖母が亡くなったため、岡山市内の伯母の家に住むようになります。この伯母の家がどこにあったかは不明。ただ閑谷中学在学中は寮に入っていたようです。
卒業後、上京して青山学院大学に通うようになり、外村繁に師事。ところがかなり乱れた生活をし続けために、肺結核にかかってある日大喀血。この後、何度も喀血にみまわれ、昭和18年頃に岡山の伯母の家に戻り、入退院を繰り返します。このときに伯母のすすめで奥津温泉に療養に行っています。
小説がどこまで事実なのかはわかりませんが、このあと病院で出会った女性と岡山市内のお寺の傍で暮らすようになっていったんは伯母の家を出ますが、女性と別れてまた伯母の家に戻ることに。
そのあと伯母の家の女中と関係を持って子供ができて(これも事実なのかは不明)彼女と結婚し、伯母の家を出て三人で暮らすようになります(もしかしたら住むようになったのは伯母の別荘)。そして、そこで同人雑誌(おそらく『曙』だけ)を発行。木山さんがやってきたのはこのときに暮らしていた家のはず。そこは昭和20年6月の空襲で焼けてしまうのですが。

さて、『愛と孤独の昼と夜』には、こんな記述がありました。彼らが暮らしたのは「すぐお城の近くの川ぶちの、対岸が公園になっているところにある、小じんまりとした家」だと。お城はもちろん岡山城、そして公園は後楽園のこと。かなり場所が絞られてきました。

さらに倉敷に移って間もない時期に書いた、やはり藤原審爾自身が主人公と考えられる「氷夜」という小説には、こんな記述が。
戦争のせいで不意の経費も重なるため、私は思いきってその家(伯母の家)を手放すと、妻を迎え川ぶちの狭い家へ移って行った。庭だけは広く、眺めの良い家で表の部屋から見わたすと、二十間あまりの水の浅い川が家のまえで右に曲り、橋をいくつも見せる川上が遠く眺められた。

これで場所はほぼ特定できました。ああ、また、あのあたりりなんだなという場所。藤原審爾が住んでいた家があったのは、前に使ったこの地図の赤で四角を囲んだあたり。現在の地名でいえば丸の内2丁目。
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ここは岡山空襲の直前に荷風が滞在していた松月という旅館にも近く、このあたりを荷風は何度も歩いています。例えば昭和20年6月17日の『断腸亭日乗』。
午前岡山神社を拝し祠後の堤に出て岡山城を望見す、風光頗佳なり。

このとき荷風がやってきた場所のあたりから撮った写真を貼っておきます。藤原審爾が住んでいたのは、この土手沿いに家が立ち並んでいるあたり。
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この近くから上流を見ると、こんなふうにいくつも橋が見えます。
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一番手前の橋が鶴見橋。荷風は6月18日にはこの橋を渡って西大寺鉄道の発着駅、今の夢二郷土美術館まで歩いています。
それ以外の日にも、食事の後などに、このあたりを何度も散歩して、おそらくは藤原審爾が住んでいた家の前も歩いていたはず。当時、散歩なんてことをする人はめずらしかったはずなので、藤原審爾は一度くらいは歩いている荷風の姿を見たのではないかと思います。変わった爺さんが歩いているなと。でも、まさかそれがあの永井荷風だとは夢にも思わなかったでしょうね。まさかそのとき、荷風が岡山にやってきていて、目と鼻の先に住み、自分の家の前を散歩しているなんて想像すらできるはずもなかったことでしょうから。

ちなみにこれは岡山文庫の『岡山の文学アルバム』に掲載されていた写真。赤い矢印で示したもんぺに羽織り姿の青年が藤原審爾。
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この写真の真ん中(前列右から4人目)に座っているのが、小津の『麦秋』の、例のニコライ堂が見える喫茶店で交わされる会話に出てくる『麦と兵隊』を書いた火野葦平。彼がやって来たときに撮った記念写真のようです。
写真が撮影されたのは昭和19年の早春。ちょうど『曙』という同人雑誌を出版していた頃のこと(この年の暮れに、岡山駅で木山さんに一升瓶を手渡すんですね)。
写真が撮影された場所は岡山城西手櫓の石垣の前。当時、藤原審爾が住んでいたと考えられる場所のすぐ近くです。
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by hinaseno | 2014-10-09 10:45 | 雑記 | Comments(0)