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ママカリの話からママカリの話へ


今回の話はたぶん、いろんなところに飛びまくります。場所も時代も。どこから、何から書き始めればいいのやら。
中心的な人物もいるのかどうかはよくわかりません。自分の意識としてはいつも木山捷平と小津安二郎がいるのですが。でも、今回書く予定の話の中心にどかんと座っているのは井伏鱒二でしょうね。それからやはり川本三郎さん。

そうだ、ママカリの話から。
川本三郎さんが牛窓を訪ねたときに立ち寄った小料理屋で食べたのが瀬戸内名物のママカリでした。川本さんがママカリを食べた店で、井伏鱒二が一時期牛窓に滞在していたことを知り、さらに木山さんと関係の深いある人物のことを知り...。

いきなり話は終戦後のことに。場所は岡山では牛窓とは反対の西の端と広島の東の端。
木山捷平は昭和19年に満州に行き、敗戦が決まってからも1年ほど長春に留まることになり、ようやく日本に戻って来たのは昭和21年8月の末。このときの日々を描いたものが『大陸の細道』ですね。
元々体がそんなに丈夫なわけではない木山さんだったので相当にひどい健康状態で日本に戻ってきます。この写真が帰国直後の木山さん。極度の栄養失調になっていたようで、とても木山さんとは思えないほど痩せこけてしまっています。
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木山さんが帰国して生活するようになったのは、戦前に住んでいた東京ではなく郷里の岡山。現在は笠岡市に入っていますが、笠岡の市内からはかなり北の方の新山村という所。当時、木山さんの奥さんも息子の萬里さんもそこに疎開していました。
郷里に戻って来てまもなく、木山さんは奥さんから師と仰ぐ井伏鱒二が彼の郷里の福山に戻って来ていることを聞きます。福山は広島県の東の端にある町。木山さんの住んでいる笠岡からはそんなに遠くありません。で、木山さんはすぐに会いたいとの手紙を出します。ただ、井伏が会うことにしたのはひと月以上も後の10月半ば。井伏は笠岡に住んでいた古川洋三に木山さんの健康状態を何度か観察させて、会っても大丈夫というのを確認してから会うということにしたんですね。なんと大人の心遣い。

二人が再会したのは昭和21年の10月14日。木山さんの日記を見ると、この日の朝にも病院に行って注射を打ってもらっています。まだ、体調が万全とはとてもいえない状態では在ったようです。

さて、いよいよ再会の時がやってきます。
この木山さんと井伏鱒二の再会の場面がいいんですね。僕は木山さんが書いたものの多くを風景として心に留めているのですが、これはとりわけ好きな風景。場所は古川洋三の疎開先である笠岡市。笠岡港のすぐ近くだったようです。
木山さんはこのときのようすをこう描いています。なんとも素敵な秋の海辺の風景。
 当日、私はがたがたの自転車を引っぱり出して、一里の道を笠岡までとばした。
 定刻の一時頃、古川洋三の疎開先に行くと、
「井伏さんは今朝早くから見えております。いま古川と浜に出て、釣りをしていらっしゃいます。もうおっつけお帰りになるでしょう」
 と古川夫人が柱時計を見ながら言った。
 大体の見当をきいて、私は浜に出た。海の入江をかかえるようにして、長さ三、四丁の花崗岩の突堤がある。その突堤の先端に、私は二人の姿を見つけた。
 突堤の花崗岩は秋の陽にてらされて、足の裏があついほどであった。でも海から吹いてくる風は涼しかった。犬だての花が石崖の間にこぢんまり咲いていた。人ひとり通らぬ突堤を、私はひとりで歩いた。
 先端から一丁位まで行った時、二人がちらりと私の方を見た。しかし二人は熱心に釣りをつづけた。
 二人と私の距離が三間くらいになった時、
「井伏さん」
 と私は咽喉がつまったような声をかけ、二間くらいになった時帽子をとって、
「留守中はいろいろどうも……家内がたいへんご厄介をおかけしまして……」
 と舌たらずではあったが、それを補うように丁寧なお辞儀をした。
 私の留守中、私の家内はたびたび井伏氏に手紙を出して、捷平がいまどこにいるだろうかと井伏氏に筋違いな難問を発して、井伏氏を困惑させていたらしいからであった。
「いやあ、よく帰った。実を言えば、君はもう満州で戦病死したというニュースが、ぼくの耳にもはいっていた位だよ」
 釣糸をたぐり寄せながら、井伏氏が私の気持をほぐすように言った。
 表現がまずくてうまく感じが出ないが、
「奥さんがよろこんだだろう」
 とつづけて井伏氏が言ったので、
「はい、それはもう、大へん……」
 と私は答えた。
(「井伏鱒二」『群像』昭和39年10月)

感激のあまりに言葉がうまく出てこなくなってしまっている木山さん。何度読んでもぐっとくりものがあります。
この再会の場面、井伏鱒二も書いているんですね。こちらの木山さんはもうすこししゃべっています。
 終戦直後のころ、私が備中笠岡港の突堤でママカリ釣をしてゐると、肩章のない兵隊服を着た木山君がひょつこりやつて来た。久しぶりの出会ひだが、いきなり木山君がかう云つた。
「僕はね、こなひだ満州から引揚げて、この近くの僕の生れた所在にころがりこんじゃつた」
「それで君は、その在所で何をしてゐるんだ」と聞くと、僕は地主で、家内が小作人だと云つた。これは木山君の郷里に疎開してゐる奥さんが、空閑地利用で菜園か何か作つてゐて、木山君はぶらぶらしてゐるといふ意味に解された。
 こんな風に木山君は、お互に久闊でびつくりしてゐる場合でも咏嘆的な言葉や感傷的な口吻を見せない人であつた。詩や随筆を綴る場合にもその傾向があつた。根底は感傷家でありながら、感傷はユーモアで消してゐる。ぎらぎらする大げさな言葉は、素朴な風化した言葉にしなくては気恥ずかしい。そういう人がらであつた。
(「面影」『感恩集』昭和45年9月)

木山さん、なんだかしどろもどろで何を言ってんだかって感じですね。
でも、これほど木山さんの人柄をくっきりと描いている文章を他に知りません。僕の思い描いている通りの木山さんの姿がここにあります。

それにしても木山さんも素敵ですが、井伏鱒二もさすがという感じです。命からがら満州から戻ってきて久しぶりに会う日がやってきたというのに、その約束の時間をほっておいて大好きな釣りをしているのですから。しかも釣っていた魚がママカリだったとは。

二人が再会した風景はこんな感じだったでしょうか。
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by hinaseno | 2014-09-26 10:07 | 雑記 | Comments(0)