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by hinaseno

暖簾が風に気持ちよくはためくためには(4)― 人家は皆山に攀づ ―


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勝山に行くのならば、荷風が行ったのと同じルートで行きたい。あの昭和20年8月13日に荷風が見た風景と同じものを見てみたい。できるだけ同じ日の、同じ時間に。

あの日、荷風は岡山で列車に乗り、伯備線経由で高梁川沿いを北上し、新見で今の姫新線に乗りかえて勝山へと向かいました。

その日の『断腸亭日乗』。
と、ここで少しだけ面倒くさい話を。
以前も触れましたが岡山の日々を描いた部分に関しては『罹災日録』と『断腸亭日乗』でかなりの違いが見られます。『罹災日録』に比べて『断腸亭日乗』の方はいくつもの言葉の省略、表現の変更が見られます。平易な表現になって、文の美しさがなくなっているんですね。言葉の調子もよくない。僕が実際に見た風景で確認しても『罹災日録』のほうが詳しく、正確に、そしてなおかつ美しく表現されています。
興味深いのは『荷風全集 別巻』の附録のCDに収録されている「荷風自作朗読『断腸亭日乗』」で、荷風が「断腸亭日乗」という言葉から始めて読んでいる昭和20年8月12日と13日の日記は『罹災日録』に収録された方。岡山の日々に関しては荷風自身も『罹災日録』に書かれている方が”本当の”『断腸亭日乗』と考えていた証拠のような気がします。
まるで、どれが本当の『EACH TIME』か、みたいな話ですね。

というわけで、『罹災日録』に収められている8月13日の日記を。
八月十三日
谷崎氏を勝山に訪はむとて未明に起き、明星の光を仰ぎ見つゝ暗き道を岡山驛の停車場に至る。構内には既に切符を購はむとする旅人雑沓し、午前四時札賣塲の窓に灯の點ずるを待ちゐたり。構外には前夜より來りて露宿するもの亦尠からず。予この光景に驚き勝山往訪の事を中止せむかと思ひしが、また心を取直し行列に尾して佇立すること半時間あまり。思ひしよりは早く切符を買ひ得たり。一ト月おくれの盂蘭盆にて汽車乘客平日よりも雑沓する由なり。予は一まづ寓居に戻り、朝飯かしぎて食ひし後、再び停車塲に至り九時四十二分發伯備線の列車に乘る。

この日の朝、住んでいた三門の家から岡山駅まで一往復半しているんですね。歩いたら片道おそらく30分くらいはかかるはず。しかも切符を買うために30分くらい並んでいます。これだけでも相当に疲れそうです。

で、荷風が乗ったのが9時42分発の伯備線経由の列車。というわけで、当初は8月13日の、同じ時間くらいの電車に乗ろうと考えていましたが、やはりお盆と重なって人も多そうだったのでやめて、行ったのは7月26日。翌日の日曜日の27日とどちらにしようかと考えてのこと。行ったみてわかったことですがタルマーリーは7月27日から8月13日まで休み。危ないところでした。もちろん、あとでタルマーリーのサイトを見たら、ちゃんと書かれてはいたのですが。

結局、僕が乗ったのは8時5分発の特急やくも。乗り継ぎとか到着時間のことを考えたら、これしかないかなと。これで新見まで行って津山行きの姫新線に乗り換えます。

さて、列車の中での荷風の様子。まずは倉敷まで。
辛うじて腰かくることを得たり。向合ひに坐したる一老媼と岡山市罹災當夜の事を諮る。この媼も勝山に行くよし。辨當をひらき馬鈴薯、小麦粉、南瓜を煮てつきまぜたる物をくれたれば一片を取りて口にするに味案外に佳し。

で、倉敷から伯備線に入ります。ここからの風景描写が素晴らしい。
列車倉敷を過る頃より沿線の山脈左右より次第に迫り來り、短き隧道を出入する事敷回に及ぶ。沿道行けども行けども清渓の流るゝあり。人家は皆山に攀づ。籬辺時に百日紅の花爛漫たるを見る。

この時の荷風の心の状態を考えれば、風景などをゆっくりと眺める余裕などなさそうな気もするのですが、実際の風景を見て改めて永井荷風という文学者、というか観察者のすごさを思い知りました。風景を的確にとらえ、しかもそれを簡潔で美しい文章に仕上げています。山の斜面に家が建ち並んでいる風景は、まさに「人家は皆山に攀づ」というべきもの。その表現の見事さに感動しました。

ところで、伯備線を北上し始めて間もなく、自分のしたことのまちがいに気がつきました。僕は進行方向に向かって通路を挟んで右側の座席の窓際に座ったのですが、それでは荷風が「沿道行けども行けども清渓の流るゝあり」と表現した風景をまったく見れない。「清渓」つまり高梁川が流れているのは進行方向に向かって左側だったんですね。荷風が座ったのもおそらく通路を挟んで左側の座席。
というわけで、すぐに左側に移りたかったのですが、残念ながら見える範囲の左側の窓際の座席は全部埋まっていました。結局、移ることができたのは次に停まった駅で人が降りた後。特急だったので、すでに新見までの区間の半分くらいは来ていたのですが。
それでも、窓越しに見える高梁川の風景は素晴らしいものがありました。岡山にこんなにも美しい風景があったとはと心が震えました。
次は時間がかかっても各駅停車の列車に乗ってみたいと思わずにはいられませんでした。
もし、勝山に行かれるのならば、やはり時間がかかっても伯備線に乗ってもらいたいなと。もちろん通路を挟んで左側の窓際の座席で。できれば荷風の『断腸亭日乗』(『罹災日録』バージョン)を読みながら。
by hinaseno | 2014-07-30 10:44 | 雑記 | Comments(0)