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暖簾が風に気持ちよくはためくためには(2)― 下駄の話をもう少し ―


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昨日は下駄を履いて近所をぶらぶらと。いや、下駄って気持ちがいいですね。

下駄といえば、何といっても永井荷風の『日和下駄』。最高の町歩き本です。こんな一節で始ります。
人並はずれて丈が高い上にわたしはいつでも日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く。いかに好く晴れた日でも日和下駄に蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。

荷風は若い頃はどんな天気のときでも下駄を履いて東京の町のあちこちを歩いていたんですね。下駄を履いて遠くまで歩くのは大変そうですが。

手持ちの本で、荷風が下駄を履いている写真をいくつか。たくさんあるかと思いきや、見つかったのはこの2枚だけでした。
まずは1908(明治41)年の写真。アメリカから日本に戻ってきた直後くらいでしょうか。29歳の荷風。
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こちらは1947(昭和22)年の写真。千葉の市川に住むようになったときにとられたもの。68歳の荷風です。
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さて、僕が勝山に行かなくてはと思った最初のきっかけもやはり荷風でした。このブログで何度も書いたように荷風は終戦間際に勝山に行きます。そこにいたのは谷崎潤一郎。一足先に谷崎は家族とともに勝山に疎開していて、何度か荷風に勝山に来てはどうかとの手紙を書いていました。で、ついに昭和20年8月13日に荷風は勝山にいる谷崎に会いにいきます。できれば勝山に疎開したいという気持ちを抱いて。
荷風が岡山で過ごした場所をひとつひとつ辿ってきた僕にとっては、最後に見ておかなければならない場所が勝山でした。

それからもちろん、小津安二郎が若いときから敬愛してやまない二人の作家、谷崎潤一郎と永井荷風が岡山の勝山で再会したというのも僕にとっては大事件。この勝山での2人の再会が小津の『早春』での池部良と笠智衆が川べりで語り合うシーンのモチーフになっているのではないかという僕なりの推測をこの目で確かめてみたいという気持ちもありました。

ちなみに、荷風が勝山に到着したときの服装はどうだったかというと、谷崎潤一郎の『疎開日記』の昭和20年8月13日にこう書かれています。
カバンと風呂敷包とを振分にして擔ぎ外に予が先日送りたる籠を堤げ、醤油色の手拭を持ち背廣にカラなしのワイシャツを着、赤皮の半靴を穿きたり

下駄ではなかったようですね。まあ、当然といえば当然。

ところで、勝山へ行くことを具体的に考えていたときにもうひとつの”事件”が起こりました。
ちょうど一週間前の夜のこと、谷崎が勝山にいたときのことを書いた『疎開日記』を読んで、それから川本三郎さんが勝山について書かれた「谷崎潤一郎の隠れ里」(朝日選書『文学を旅する』所収)を読み終えた後、メールをチェックしたら、まさに谷崎と同じ名前を持つN社のSさんからメールが届いていました。読んでみたら、なんと勝山に関することが。偶然にしては、あまりにもできすぎている話。本当にびっくりでした。で、その話は、昔、ある会社の社長をされていたときに下駄を履いて会社に通われていたという方がつい最近書かれた本にもつながっていくことになります。いやはやなんとも。

そういえば、久しぶりに『日和下駄』を取り出してみたらいくつも付箋が貼ってあるのに気づきました。
大瀧さんが「五月雨」の歌詞を書くときに、荷風のどの随筆を参考にしたのかといろいろ探して歌詞の中の言葉を見つけては貼ったものでした。
『日和下駄』が一番多かったんですね。「無闇矢鱈」「一目散」「薄墨」「憂鬱」...。荷風の『日和下駄』がなければ「五月雨」の歌詞はどうなっていたんでしょうか。
ちなみに大瀧さんがシングル「五月雨」をレコーディングしたのは1972年3月22日。ということはおそらく1972年の年明け、もしかしたらお正月に炬燵に入って、蜜柑でも食べながら『日和下駄』をパラパラと眺めていたのかもしれませんね。大瀧さんが23歳のときです。
ちなみに今日7月28日は大瀧さんの誕生日です。

ふと大瀧さんが下駄を履いている写真がないかと探してみましたがありませんでした。フォークの人たちと区別するために絶対に下駄なんか履かなかったんでしょうね。
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by hinaseno | 2014-07-28 11:37 | 雑記 | Comments(0)