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by hinaseno
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小津安二郎の『東京の合唱(コーラス)』のこと


「最近はなんだかいろんなところで井伏鱒二にぶつかってしまう日々」と昨日書いた、その一つ目の話。結構大きな話です。

このブログでも何度か取り上げた川本三郎さんの『郊外の文学誌』に収められた「小市民映画の生まれたところ 蒲田とその周辺」の中で引用されていた安岡章太郎の『わたしの20世紀』(朝日新聞社 1999年)を少し前に読んでいたら、昭和6年公開の小津安二郎の映画『東京の合唱』についてちょっと興味深いことが書かれていました。
「おおらかな貧しさ」と題されたエッセイの中の言葉。『東京の合唱』は『生れてはみたけれど』の前年の昭和6年に公開されたサイレント映画で、『生れてはみたけれど』と同じく蒲田(川本さんの本によれば矢口)あたりで撮られた小市民映画ですね。それについてこんなことが書かれています。
昭和6年8月には、井伏鱒二の『仕事部屋』が刊行され、同年同月、小津安二郎の映画『東京の合唱』が帝劇で封切になっている。
ところで私は最近、ビデオで『東京の合唱』を見て妙なことを発見して驚いた。この映画の主要な部分がじつは『仕事部屋』に収められた短篇『先生の広告隊』にそっくりなのである。

で、映画と小説に出てくる場面をいくつか紹介した後でこう書いています。
こんな風に細部にいたるまで、映画は小説を踏襲している。しかも原作・井伏鱒二といったタイトルや説明はどこにも全然なく、単に原案・北村小松、脚色・野田高梧などとあるだけだ。

確かに僕がもっている小津関連の本を見ても『東京の合唱』については「原案=北村小松 脚色・潤色=野田高梧」と書かれているだけ。解説にも井伏の名前は出てこない。
安岡はさらにこう続けています。
但し、私は北村小松(故人)のことは個人的にも良く知っているが、決して井伏氏の小説を無断で映画化するような人ではない。それは、小津氏や野田氏についても同断であろう。おそらくスタッフの中には誰一人、『先生の広告隊』を読んでいるものはなかったに違いない。

すぐにパクったな、という方向に話を持っていくことはせず、さらに安岡なりの推測を展開されています。

さて、はたして真相は、と思いつつ、僕は小津の研究本をほとんど持っていないので、このあたりのことについてどれほど真相究明がなされているのかわからないまましばらく放置していたのですが、先日、とりあえずネットで調べてみたら、あっと驚くようなものを発見しました。
真相となるべきものが見つかったのは、兵庫教育大学の前田貞昭教授(姫路の木山捷平の研究を進める上でいろいろとお世話になりました)の「井伏鱒二著作調査ノート(その三)―『井伏鱒二全集』別巻II掲載「著作目録」以後―」と題されたもの。ここに公開されています。

井伏鱒二の『先生の広告隊』と小津の『東京の合唱』についての話が出てくるのは、成瀬巳喜男の『秀子の車掌さん』のロケの現地で行なわれた座談会。成瀬の『秀子の車掌さん』の原作も井伏(『おこまさん』)だったとは知りませんでした。

座談会の出席者は井伏鱒二、成瀬巳喜男、それから高峰秀子ら何人かの出演者、そして製作者でこの座談会の司会も務めている藤本真澄。座談会が行われたのは『東京の合唱』のちょうど10年後の1941年(昭和16年)。
この中で、井伏の作品が映画化されるのは、この『秀子の車掌さん』が5作目だと語られているんですね。で、成瀬と藤本が井伏原作の映画として挙げている最初のものが、なんと『東京の合唱』。以下、『多甚古村』『南風交響楽』『響』、そして『秀子の車掌さん』と続くとのこと。
成瀬と藤本にとって、小津の『東京の合唱』の原作が井伏の作品であることは周知の事実であることがわかります。で、ポイントはここですね。
「東京の合唱」の原作者として井伏の名前が出ていないことに成瀬が触れ、藤本も「あれは、当時、私が北村小松氏に原作に就いて書いて貰ひたいと言ひましたところ、「これは僕の原作ではない」と 言ふ......。」と発言している。成瀬が、井伏にその事情を質すと、井伏は「まあ、当時の私の気持ちとしては、あまり表面に立ちたくない......そんな所でしたよ。」と答えている。

司会の藤本が「当時」、つまり『東京の合唱』が作られて間もない頃に「原作」者となっている北村小松に「原作」について訊ねたら、北村小松はその時点で「これは僕の原作ではない」と答えているんですね。で、北村はそこで藤本に原作が井伏の『先生の広告隊』であることを告げたんでしょうか。あるいは藤本は原作が北村ではなく井伏であることがわかったうえで、そのあたりの事情を伺おうとしたのかもしれません。
で、成瀬もそれを知っていたので、この座談会を機に、なぜ原作者に井伏の名が出ていないのか訊ねたんでしょうね。これに対しての井伏の答えは「まあ、当時の私の気持ちとしては、あまり表面に立ちたくない......そんな所でしたよ」。
当時、まだ、そんなに名前が知られていなかった井伏にとっては、自分の名前を表に出す、これ以上ない機会であったはずだったのに、あえてそれをしなかったんですね。ただ単に遠慮しただけなのか、別の表にはできない事情も絡んでいたのかはわかりませんが。

安岡章太郎が『東京の合唱』をビデオで初めて見たのは井伏の亡くなった後だったようなので、直接井伏に真相を訊ねるわけにはいかなかったみたいですね。ただ、北村小松とも井伏とも親交のあった安岡は、北村と井伏の間に石山龍嗣という俳優(小津の『東京暮色』で「深夜喫茶の客」として出ている人。のんちゃんの話を聞いている人の中にいるのかな)の存在を考えています。石山は北村とも井伏とも、かなり親しい関係にあったそうです。で、おそらくは井伏から直接聞いた『先生の広告隊』の話を北村に伝えたのではないかと推測しています。

あるいは北村が映画のストーリーを考えあぐねていたときに石山に相談したら、僕の知り合いに小説を書いている人間がいるよということになって北村と井伏の間を取り持って、まだ未発表の作品だった『先生の広告隊』の原稿を北村に見せたという可能性の方が高いのかもしれません。
ちょっと興味深いのは『東京の合唱』から後、小津の映画の原作に北村小松の名が使われることはなくなっています。「ジェームス槇」という小津の変名の中に、北村小松ら何人かの脚本家が含まれているようですが。

いずれにしても、これで井伏原作の小津の映画が作られていたことが判明しました。『東京の合唱』はYouTubeで一度だけざっと見ただけだったので、改めてきちんと観直そうと思います。それから井伏の『先生の広告隊』も読んでみなければ。
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by hinaseno | 2014-05-06 10:26 | 雑記 | Comments(0)