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by hinaseno
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「そこにあるレコード、好きに聴いていいよ」


「He’s A Rebel」については書きたいことがたくさんありすぎるのですが、知れば知るほどこの曲はまさにスペクターにとって「人の縁と時の運」によってできた曲といえますね。大瀧さんが『鴛鴦歌合戦』の制作のキーワードにしていた「急遽」というのも同じですし。
そういえば昨日「He’s A Rebel」は、ダーレン・ラヴがリード・ボーカルでクリスタルズがバックコーラスをしていると書きましたが、実は「急遽」だったためにクリスタルズは不在。で、「急遽」みつけたのがダーレン・ラヴ率いるブロッサムズ。バックコーラスをしていたのはブロッサムズのメンバー。
アーロン・シュローダーの事務所でジーン・ピットニーの作った「He’s A Rebel」を聴いたスペクターは衝撃を受けてすぐにレコーディングをしなければとスタジオに向かいます。シュローダーに、あのスナッフ・ギャレットにも「He’s A Rebel」を聴かせていて、スナッフ・ギャレットもそれをレコーディングしたがっていることを聴いていたんですね(スペクターがスナッフ・ギャレットのデモをこっそり”盗んだ”という説もある)。ちなみにそのスナッフ・ギャレットのプロデュースでヴィッキー・カーというシンガーに録音されたのがこちら。リバティ・サウンドによる「He’s A Rebel」。でも、こっちは全然ヒットしなかったんですね。クリスタルズのと比べると音がショボすぎますね。

)

さて、一刻も早くレコーディングしなくてはとスペクターが向かったスタジオは、その後、スペクターやブライアン・ウィルソンにとって聖地となるゴールド・スター。「急遽」使うことになったエンジニアはラリー・レヴィン。そしてこの曲で初めてスペクターのセッションに参加することになったドラマーがハル・ブレイン。「急遽」という中で、まるで強力な力に惹きつけられるように、でも多くは”たまたま”でもあるのですが、すごい人たちが集まってきたわけですね。まさに「人の縁と時の運」。

それはさておき、大瀧さんにとっての最大の「縁」といえば、やはり達郎さんとのことになります。その大瀧さんと達郎さんとの「He’s A Rebel」にまつわる話を少し。大瀧さんと達郎さんの関係を考えるときに、最も印象的な話。おそらく達郎さん自身にとっても、その出会いの日とともに忘れられないエピソードとなっているはず。
その証拠といってもいいのが先日、3月2日に放送された”Eiichi’s Favorite Special”と題したガール・シンガー特集。
大瀧さんがプロデュースした女性シンガーがカバーしたり、自作の曲の中に引用した曲を集めていましたが、その中に収められていたのが「He’s A Rebel」。
大瀧さんが「He’s A Rebel」を大好きなことは知っていますが、でも、大瀧さんが作った何かの曲ではっきりとわかる形で引用している曲ではありません(たぶん)。

番組の後半で達郎さんは”その日”のことに少しだけ触れています。達郎さんがいろんな場で、何度も語ってきた達郎さんにとって忘れられないエピソード。
このブログで何度も書いたように達郎さんが長門さんといっしょに大瀧さんの家にはじめて訪ねていったのが1973年の8月。で、9月のはっぴいえんど解散コンサートにコーラスで参加することを依頼。その後達郎さんが大貫妙子さんらと新たに結成したシュガー・ベイブを大瀧さんのCMなどのレコーディングのコーラスに使うようになります。
で、翌74年の秋頃から大瀧さんのプロデュースのもとシュガー・ベイブの『SONGS』のレコーディングを開始。翌75年4月、大瀧さんが設立したナイアガラ・レーベルの第1弾として『SONGS』を発売。でも、『SONGS』を発売したレコード会社がまもなく倒産したりと、次第にシュガー・ベイブも実質解散状態になるんですね。
というわけで、大瀧さんとしては”記念”に、ナイアガラが最初に契約したアーティストである”ごまのはえ”のリーダーの伊藤銀次さんと、達郎さんといっしょに『ナイアガラ・トライアングル』の制作を開始します。ナイアガラ的にもひとつの解散記念。ちっとも湿っぽくないんですけど。

達郎さんが大瀧さんの家にあるスタジオにこもって連日レコーディングしていた、おそらくは1975年暮れのある日。
ずっと夜中じゅうレコーディング作業をしていた朝5時頃、達郎さんが一眠りしようかとしていたときに大瀧さんがスタジオにやって来て達郎さんにこう言います。
「そこにあるレコード、好きに聴いていいよ」

そこには大瀧さんから話を聞いていたけれども達郎さんにとっては見たことも聴いたこともないレコードがずらっと並んでいたんですね。でも、出会ってから2年半、達郎さんはそれを聴かせてと言うこともなく過ごしていたようです。でも、それらを聴いてみたいという顔をして眺めていたことを大瀧さんが気づかないはずはありません。でも、お互いに言葉にしないまま何年もの歳月を過ごす。奇跡ともいえる「縁」によってつながれた関係とはいえ、微妙な遠慮が働いているんですね。
で、決して「縁」が切れるわけではないけれども、ひとつの別れの記念になるプレゼントのようなものとして大瀧さんは達郎さんに「レコード。好きに聴いていいよ」っていったんでしょうね。

で、達郎さんはその日から3日間徹夜して大瀧さんのレコードを聴き続けます。その、最初に聴いたのが「He’s A Rebel」。達郎さんはそのオリジナル・シングルの音圧にぶっとぶんですね。おそらくその音は達郎さんの頭から消えることはないので、先日のサンソンの特集でも「He’s A Rebel」に関してはCDではなく、おそらくはその後ご自身が入手したレコードをかけてました。
達郎さんは何度もその大瀧さんのレコードを聴かせてもらったことの感謝を口にされていました。「He’s A Rebel」は、達郎さんにとっての大瀧さんに対する感謝の気持ちが入り込んだ象徴的な曲だったんですね。

長くなりましたが最後にもう少しだけ。
この日のブログでも少し触れましたが、村上春樹の『1973年のピンボール』ではジーン・ピットニーの作った曲が2曲、ジーン・ピットニーが作ったという説明はなく印象的に出てきます。1960年と1961年を代表する曲として。ちょっと引用します。
十二の歳に直子はこの土地にやってきた。1961年、西暦でいうとそういうことになる。リッキー・ネルソンが「ハロー・メリー・ルウ」を唄った年だ。

家の設計者であった最初の住人は年老いた洋画家だったが、彼は直子が越して来る前の冬、肺をこじらせて死んだ。1960年、ボビー・ヴィーが「ラバー・ボール」を唄った年だ。

リッキー・ネルソンの「ハロー・メリー・ルウ」も、スナッフ・ギャレットのプロデュースしたボビー・ヴィーの「ラバー・ボール」もジーン・ピットニーが作った曲。村上春樹が『1973年のピンボール』を書いた当時、そのことを知っていたかどうかはわかりません。
でも、この小説の中にはこんな言葉があります。
ある日、何かが僕たちの心を捉える。なんでもいい、些細なことだ。バラの蕾、失くした帽子、子供の頃に気に入っていたセーター、古いジーン・ピットニーのレコード……、もはやどこにも行き場所のないささやかなものたちの羅列だ。二日か三日ばかり、その何かは僕たちの心を彷徨い、そしてもとの場所に戻っていく。

とにかくいろんな意味でいくつもの不思議なつながりを感じさせる小説です。あとからあとからそれに気づいてしまいます。怖いくらいに。
そういえばこの小説は1973年の9月に始まる物語。大瀧さんと達郎さんがで合ったのは1973年の8月の末...。

この小説で、もし1962年のことが語られる場面があったならば、きっと村上春樹はこう書いただろうと思います。
1962年、クリスタルズが、いや、正確にはダーレン・ラヴが「ヒーズ・ア・レベル」を唄った年だ。

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by hinaseno | 2014-03-12 11:17 | ナイアガラ | Comments(0)