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by hinaseno
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荒川小学校の木山さん(6)


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今日は中秋の名月。僕には昨日の月と今日の月を見分けることはできませんが、昨日の月も、一昨日の月も美しいものでした。

昨日も仕事帰り、船場川の橋を渡るとき、船場川の流れとその上に美しく輝いている月を眺めて、木山さんのこの詩を思い浮かべました。
もちろん「船場川」という詩ですね。

あへないで帰る

月夜

船場川はいつものやうに流れてゐたり

僕は

流れにそうてかへりたり

木山さんには「秋」をテーマにした詩がいくつもありますが、それと同時に「月夜」をテーマにした詩もいくつか書かれています。
昭和初期の、しかも姫路の外れですから、街灯なんてなかったはず。でも、木山さんは仕事のあと、月の光を頼りに、数少ない”友”に会いに出かけていってたんでしょうね。
月の光とともに場所を確認するために頼りにしていたのは船場川の流れ、それから...。

ところで、タイトルの写真が変わったことに気づかれたでしょうか。これこそまさに僕が見たかった写真だったんです。木山さんが昭和2年に見続けていた風景ですね。

実は『荒川小学校百年史』の前に『荒川小学校開校八十周年記念誌』というものが出版されているのを知って、図書館に行ったら借りられる棚に置かれていました。何度も見ていたはずの棚でしたが。本が小さくて薄く、しかも背表紙の「荒川小学校」という文字がすごく小さくて、ちっとも気づきませんでした。
手にとってぱらぱらとめくったら、見たかった写真、あるいは木山さんがいた当時の学校の見取り図もあり、もうびっくりでした。もちろん旧職員のところに木山捷平の名前もあります。

卒業年次別の生徒数も載っています。昭和2年次は男子36人、女子31人。この子たちの卒業式の日には木山さんはもちろんいたんでしょうね。当時はまだ講堂がなかったので、2つに別れていた教室の間の仕切りを取り払って講堂代わりにしていたようです。

さて、その『八十周年記念誌』に収められていた写真。
まずは『百年史』には「戦前の...」としか書かれていなかった写真も、『百年史』よりも大きくクリアに載っていました。これですね。
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写真の下には「明治43年頃の校舎」と書かれています。その頃にはすでに現在の位置に校舎があったんですね。
で、次が「大正4年頃の校舎全景」と題された写真。ここに僕がずっと見たいと思っていたものが写っていました。うれしかったですね。
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それから次が「昭和8年頃の校舎全景と清水校長」と題された写真。
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作られたばかりの大きな講堂が、まばゆいばかりに輝いていますね。こちらの写真にも僕の見たかったものがやはり写っています。

木山さんが荒川小学校にいたのは昭和2年ですから、年代的には昭和8年の写真の方が近いことになりますが、でも、まだ講堂が建っていなかった大正4年頃の写真の方が木山さんの見ていた風景に近いでしょうね。

さて、僕が見たかったものと言えば、それは2本のポプラの樹でした。正面から見たら校門の左側、実際には校門を入ってすぐの南側に立っていたようです。
大正4年(1915年)頃と昭和8年(1933年)頃の写真を見比べてみると、ずいぶん高くなっていることがわかります。ポプラの樹の高さを考えると木山さんが見たのは昭和8年の方に近いですね。

僕が『百年史』の戦前の卒業生の思い出の文章を読んで気がついたのは、何人もの人がポプラの樹のことを書いていたことでした。『八十周年記念誌』に収められた思い出の文にもやはり何人もの人がポプラの樹のことを書いています。
例えば卒業年は書かれていませんが大正時代の苫編の八木さんの文。こんな言葉が出てきます。
荒川村立荒川尋常小学校と大きな標札がかかった石柱の校門があり、それに接して南に二本の大きなポプラの樹がそびえていた。このポプラは何処からもよく見え、小学校の一つの目印にもなっていた。

あるいは大正12年卒の、この文章を書かれた当時は生駒市に住まれていた塚原さんの文にもこんな言葉が。
運動場には、東の郡道(のちの県道)沿いに数本のポプラの巨木が並び立っていたのが印象的。これが学校唯一のアクセサリーであったが、その亭々として天を衝くような威容は、将来の向上と、目標に向かって邁進する勇気を象徴するように思えて、子ども心をゆさぶり励ましました。

他にも『百年史』を含めて何人もの人がこのポプラの樹のことを書いています。講堂が造られる前は、校門横の2本のポプラの樹が「目印」でもあり「唯一のアクセサリー」だったんですね。
『八十周年記念誌』には「昭和16年頃の校舎全景と大西校長」と題された写真が載っていますが、そこにはもっと大きく2本のポプラの樹が手前に写っています。
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実は木山さんが姫路で発行していた「野人」にはポプラの樹のことを書いたものがあります。しかも2つも。

それらは少しだけ言葉を変えられて後に出版された詩集に収められています。そられの詩集に収められた詩の書かれた年代を見ると昭和2年。まさに荒川小学校に勤めていたときのものです。

僕は木山さんの詩の中でも、特に重点的に昭和2年に書かれた詩を読んできましたから、一体このポプラの樹はどこにあったものなんだろうかとずっと考えてきたのですが、まさしくそれは荒川小学校のポプラだったんですね。
荒川小学校あたりに土地勘がなかった木山さんは、まさにこのポプラを目印にしていたはず。荒川小学校近くの町坪に住んでいたときには、家に戻るための目印として、あるいは市内の千代田町に住んでいたときには、学校へ行くための目印として。

というわけでその詩を2つ紹介しておきます。
まずは「野人」の第二輯の最後に収められた「ポプラの梢」と題された詩。

風に順応してゐるのではない。
ポプラの梢は
つよい反抗をつづけてゐるのである。

おそらく荒川小学校に勤めるようになって間もない時期に書かれたはずの詩。木山さんの気持ちが表れています。
ただ、のちに『木山捷平詩集』(昭和42年発行)に収められたものは、こうなっています。

風に順応してゐるのではない。
ポプラの梢は
腹のへり加減を見てゐるのである。

詩の下に「昭・2」と添えられていますが、このポプラは、荒川小学校のポプラとは違うものになっている気がしますね。

もう1つ、「野人」の第五輯に収められた「月夜の時雨」と題された詩。おそらくは秋に書かれた詩。となりの頁には、後に「大西重利に」との言葉が添えられる「秋」という詩が並んでいます。「野人」の中で最も好きな”風景”です。

いゝ月夜だ。

ぱらぱらと
しぐれが過ぎて行つた。

さびしいか?
否!

ひえびえと
しかも素直に
葉のおちたポプラは立つてゐる。

この詩ものちに『野』(昭和4年)に収められたときにほんの少しだけ言葉が変えられています。

いい月夜だ。

ぱらぱらと
しぐれが過ぎて行つた。

さびしいか?
否!

ひえびえと
しかもまつすぐに
葉の落ちたポプラは立つてゐる。

こちらのポプラは荒川小学校のポプラのままのようですね。

このポプラは今はもうありません。
昭和33年の火災で焼けたんでしょうか。残念ですね。

というわけで、今夜は月明かりの下で、木山さんが見た2本のポプラの樹のことを考えながら、船場川の流れを見てみようと思います。

「月とポプラと船場川」ですね。金子みすゞの詩みたいですが。

ところで、今夜はこのブログでも何度も書いた平川克美さんがEテレに出演されます。「ハートネットTV」という番組。夜の8時からです。「隣町探偵団」の話ではなく、お父さんの介護をされていたときの話ですね。その話は『俺に似たひと』に書かれています。本当に素晴らしい本ですので、この機会に是非読んでみて下さい。
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by hinaseno | 2013-09-19 10:23 | 木山捷平 | Comments(0)