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by hinaseno
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荒川小学校の木山さん(5)


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先日お会いした町坪にお住まいの方にまず確認したのは、当時木山さんが下宿していた家の場所と、昭和初期の荒川小学校の場所でした。木山さんが下宿していた家の場所については後日触れるとして、僕にとっては半年ほど前に大正15年発行の地図を手に入れて以来気になっていた木山さんが勤めていた当時の荒川小学校のあった場所を特定しておく必要がありました。

その地図の学校の位置は、現在と道をはさんで反対側にあるんですね。
これが大正15年発行の地図。学校は、学校前の広い道の東側にあります。
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そしてこれが同じあたりの現在の地図(Google Map)。
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学校は同じ道の西側にあります。大正15年発行の地図では、そこはなんと針葉樹林の生えた数十メートルの小高い丘になっています。ちなみに戦前の住宅地図も荒川小学校は現在と同じ位置にあります。

この写真は、上の地図の赤丸をしてあるあたりから、荒川小学校の方向に延びる道をとらえたもの。
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道路の左側の建物の間から校舎がちょこっとのぞいています。それから先に言ってしまうと木山さんが姫路に来て最初に住んでいた町坪の家があったのは、左の手前に写っているサーモンピンクの建物のあたりだったと思われます。

さて、先日も紹介した『荒川小学校百年史』に小さく載っている戦前のこの写真。
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それからこれは現在の、ほぼ同じ位置からとらえた荒川小学校の写真。
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校舎の位置は変わっていますが、やはり現在と同じ場所にあることがわかります。
では、大正15年以降にその場所に移転されたのかというと、それならば『百年史』の、例えば大正15年卒の人、あるいはそれ以降に書かれた人の話の中に、そのことが書かれているはず。でも、書かれているのは昭和7年に新しい講堂が作られたことだけ。

先日うかがった昭和12年に荒川小学校に入学された方の話では、講堂はすごく綺麗でピカピカだったけれども、校舎は相当古かったとのこと。
木山さんが荒川小学校に勤務した昭和2年以降に荒川小学校が道路の西側に移転したとはちょっと考えられないですね。で、改めて大正15年発行の地図を見ると、上の方にこう書かれています。
「明治26年及28年測量大正12年第2回修正測図」

大正12年に修正測図されて後に移転したのであれば、大正15年卒の人、つまり大正10年に入学した人が絶対にそれを書いているはずです。とするならば道路の東側から西側に移転されたのは、明治28年以降の明治時代ではないかと思います。僕が手に入れた大正15年発行の地図は、実はほとんどが明治26年、あるいは明治28年頃の様子を表していたんですね。木山さんが荒川小学校にやってきたころには集落はもう少し広がっていたはず。実際、木山さんが住んでいたと思われる場所には、集落を表す記号がないばかりか、家の記号すらありません。古い地図を見る場合、気を付けないといけないですね。

てなことを書きながら、なんとなくやっていることが平川克美さんの「隣町探偵団」とかなりかぶっていることに気づきました。踏切り、そこを越えたところにある小学校の場所。
もちろんこちらは当時は姫路の外れの村。平川さんの調べられているのは小津安二郎の「生まれてはみたけれど」という映画の舞台になった東京の蒲田。
考えてみると、『荒川小学校百年史』の中で僕が重点的に読んでいる、木山さんが荒川小学校にいた昭和2年に1年生で、まちがいなく木山さんの姿を見ていたはずの昭和7年度に小学校6年生だった人は、まさに昭和7年に製作された「生まれてはみたけれど」の6年生の子供たちと同学年になるわけです。

その映画も、あるいは昭和7年度卒の人の書いた小学校時代の思い出もどこか牧歌的なものがあります。でも、それぞれに彼らが6年生のときに起きたある出来事が、映画と作文に共通して登場しています。

爆弾三勇士(肉弾三勇士)。

昭和7年2月22日に起きた出来事で、英雄となった人たちの話。
「生まれてはみたけれど」の教室をとらえたこの場面。
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壁に掲げられた額に「爆弾三勇士」と書かれています。僕はこの映画を観るまで「爆弾三勇士」の話なんて全く知りませんでした。

『荒川小学校百年史』に載っている昭和7年卒の中地の黒田さんの文章。途中に木山さんと同期の中村治三先生の話が出てきます。「美髭の中村先生」と書かれています。木山さんと同じ年に荒川小学校に勤務するようになっていますが、その後10年間もいたんですね。土山の出口さんも中村先生の思い出を書かれています。「中村治三先生のゴールデンバットのたばこのにおい」なんて言葉があります。
さて、黒田さんの書かれた文章の中にこんな話が出てきます。
六年生の頃、新しくできた講堂での学芸会で「肉弾三勇士」を上演したことなど、当時の世相と併せて、しみじみと回想される。

「爆弾三勇士(肉弾三勇士)」が新しくできたばかりの講堂で行なわれた学芸会で上演されたことは、その2年あとの昭和9年卒の苫編の人の話の中にも出てきます。その方の話の中には牧歌的なものはありません。おそらく学校教育的には昭和8年頃からぐっと軍国主義的なものになっていったと推測されます。その人の文章にはこんな話も。
昭和8年の教科書改訂では、神話と軍国主義で一杯となり、国家非常時と教えられ、超国家主義教育を受け、何かにつけ軍歌を歌った。

で、どうやらその年くらいに荒川小学校に奉安殿が作られたみたいですね。そこに毎月拝礼したと書かれています。昭和11年卒の方も奉安殿のことを書いています。
昭和7年度よりあとの卒業生から、先日話をうかがった昭和17年度の卒業生の間で小学校の思い出を書かれているのは、たった3人。『百年史』を出すときに、生存されている人が少なかったという理由もあるかもしれませんが、それ以上に、その人たちが受けた学校での教育にいい思い出を持っていないということが最大の理由のように思われます。
先程の昭和9年度卒の方の書かれている文章(書かれた平成4年当時は70歳くらいでしょうか)の最後はかなり厳しい内容で終わっています。木山さんのことから話はそれてしまいましたが、引用しておきます。
人間誰しも己の暗い過去について語りたくはない。「過ちは二度と繰り返しません。」「一億総懺悔」とか言う言葉どこに消えたか、儒佛文化の師匠の館へ土足で踏みこんで、非人道の限りを振舞い、何に向かって自らを恥じ、どう生きてゆくのか。私達の世代も、真剣に戦争の被害者としての日本、加害者としての日本を受けとめるために、国際社会に通用する歴史を学ぶべきだと思う。隠している方が恥ずかしく教えられない方が悲しいのではないか。

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by hinaseno | 2013-09-18 09:46 | 木山捷平 | Comments(0)