「ほっ」と。キャンペーン

Nearest Faraway Place nearestfar.exblog.jp

好きなリンク先を入れてください

荒川小学校の木山さん(3)


a0285828_1456981.jpg

木山さんが荒川小学校にいた頃の子供たちは、大正4年(1915年)から大正10年(1921年)にかけて生まれた人ということになります。今もご健在であるとすれば92歳から98歳くらい。
木山さんが荒川小学校に勤めていたことを知るのが、もう10年くらい前のことであったならと思う日々。
でも、だからこそ、どんなささいなことであれ、木山さんにつながることを発見できればうれしいものです。

実は昨日は予定していたことがあったのですが、台風の影響のためにとりやめ。で、また図書館に行って『荒川小学校百年史』(平成4年発行)を見てきました。名簿以外に木山さんのこと、あるいは木山さんにつながる何かが発見できないだろうかと、何度かページをめくっていたらちょっと興味深いものを発見しました。
それは卒業生が荒川小学校の思い出を書いたものでした。卒業年度(6年生の4月のときの年)が書かれています。木山さんが教えていた当時、荒川小学校にいた子供たちを考えてみると昭和2年から昭和7年度卒業ということになります。

で、古い方から見てみると、年代はとびとびになっているのですが、「大正12年度卒」、「大正15年度卒」と続き、さあいよいよ次はと思って見たら「昭和7年度卒」。木山さんがいた当時1年生ですね。木山さんが教えていた学年はわかりませんが、1年生と6年生ではなさそうな気がするので、教えてはいないだろうとは思いつつ、でも、荒川小学校で1年間ともに過ごしていたことは確かです。うれしいことに「昭和7年度卒」は3人も。よく読むと、興味深いことがいくつも書かれています。特に昨日書いた木山さんんと同じ時期に務めていた先生の名前が何人も出てきます。たいていは複数年勤務していた先生ですね。
で、木山さんがいたときではないけれども、その前後の生徒であった人の文章にもいくつか興味深いことが。木山さんの昭和2年に書かれた”あの詩”は荒川小学校のことかなと思わせる手がかりもありました。その詩についてはまた後日。

ところで、『荒川小学校百年史』には戦前の荒川小学校をとらえた写真が一枚だけ小さく載っていました。「戦前の荒川小学校校舎全景」と字が添えられたこの写真。非常に小さく画質のあまりよくない写真で、しかも図書館でコピーしたものから読み込んだものなので、かなりわかりづらいのですが。撮影された年代も書かれていません。
a0285828_1074684.jpg

荒川小学校は空襲の被害は受けていないのですが、昭和33年に火災があって、校舎や講堂、そして校長室が全焼しているんですね。そのために貴重なものが数多く失われてしまったとのことでした。もちろんその失われたものの中には木山さんにつながるものがいくつもあったんでしょうね。

というわけなので、これはどうやら当時生徒だった人の持っていた写真のようです。子供たちが集まっている(記念写真でも撮っている?)運動場の奥に校舎らしき長い建物。道か川をはさんで左の方にも学校関係の建物(職員室や宿直室?)と思われるものが2つほど見えます。そのすぐ背後には山が見えます。高低には背の高い木が一本か二本植えられています。

さて、荒川小学校の卒業生が書かれた文章をいくつか紹介します。
まず、木山さんが荒川小学校にやってくる前に卒業した大正15年卒業(実際には木山さんが荒川小学校にやってくる直前の昭和2年3月に卒業しているわけですね)の中地にお住まいの森さんの文章。こんな書き出し。
小学校の思い出を書くことになり何か糸口に、なるような物は、と思って記念寫眞帳を取り出しました。
一頁は校舎の寫眞です。運動場の北端に、東西に長い二棟が並んで居ました。建物の西側は、南北に大廊下で続いて居ました。廊下の西北端は、じめじめした感じの便所でした。大廊下は運動具の置場であり、掲示場であったり、また何か催し物がある時の待機場でありました。廊下には板製の簀の子が並べてありましたが廊下の地面と合わないので気を付けて歩いてもガタゴト煩い音でした。

その校舎の風景はまちがいなく木山さんがいたときのものですね。で、『百年史』に載っている写真の風景にもつながっていて、なんとなくあの写真はこの文章を書いた森さんの持っていた「記念寫眞帳」に載っていたものではないかと思います。荒川小学校は昭和7年ごろに大きな講堂が造られたようですが、この写真にはそれらしきものが見当たりません。
この写真が森さんが卒業する直前に撮られたものだとすれば、まさに木山さんが荒川小学校にいた昭和2年の写真ということになります。まあ、いつものように希望的観測に基づいた推測なのですが。

ところでこの森さんの文章には昨日列挙した教員の一番上にある田村先生のことが少し書かれています。
六年生の時には田村顕二先生に身命を賭けての御指導を賜りました。

荒川小学校に6年間勤められた先生ですね。昭和2年12月まで勤められているので、木山さんとは9か月ほどいっしょにいたことになります。田村顕二という名前なので、今だったら絶対に「たむけん、たむけん」と子供たちに呼ばれて、からかわれることになったんでしょうね。

当時はそんなことはありえない、と思ったらそうでもないようです。
昭和7年度卒業の岡田の中山さんはこんなことを書いています。
四年生になってふとした事から腕白小僧となり、上級生と一緒になって悪い事許りを致しました。先生に綽名を付けてからかったり、気に入らぬと授業を放ったらかして運動場へ出て、先生に追いかけられ中庭や法輪寺山へ逃げ廻ったことも度々でした。

法輪寺山というのはおそらく写真に写っている背後の山。荒川小学校のすぐ近くに法輪寺というお寺があるので、地元の人にはそうよばれているんでしょうね。

でも、この中山さんの話はこう続きます。
懐かしい腕白友達の大半が戦死し残念でなりません。

つまり、木山さんが荒川小学校で教えていた頃に小学校に通っていた子供たちの多くは戦死しているんですね。生徒の男女の割合は戦後からしか載っていなかったのでわかりませんが、当時小学校に通っていたのは男の子がずっと多かったのだろうと思います。『百年史』の思い出を書いている人で、大正15年卒から昭和7年卒の間がいないのはそのためなのかもしれません。ちなみに女性が出てくるのは昭和8年卒からです。
[PR]
by hinaseno | 2013-09-16 10:10 | 木山捷平 | Comments(0)