ドビュッシーの「月の光」にまつわる、 僕の"語るに足る"とはあまり思えない、ささやかなエピソード。
僕にドビュッシーの「月の光」を教えてくれたのは、当時大学の音楽科でピアノを学んでいた一人の女性でした。
僕がドビュッシーで最初に聴いたのはやはり「牧神の午後への前奏曲」、それから「海」。「亜麻色の髪の乙女」も最初は管弦楽で聴いた気がします。彼女に出会ったとき、僕はまだドビュッシーのピアノ曲をそんなに知りませんでした。持っていたのはミケランジェリのCDが2枚。その中には「月の光」が入っていなくて、ドビュッシーのピアノ曲としては最も有名な曲であるはずの「月の光」という曲が、聴いたこともないばかりか、そんな曲があることさえ知りませんでした。
彼女に出会って間もない頃、1本のカセットテープをもらいました。彼女の好きな曲ばかりを集めたテープ。きっとその前に僕が彼女に僕の好きな曲を集めたテープをあげたのではないかと思いますが、だとしたら僕はそのテープにどんな音楽を入れてたんだろう。今となってはまったく思い出せません。ビーチボーイズのバラード曲ばかりを収めたものだったかもしれません。
彼女のくれたテープに収められていたものの多くはクラシック。そしてその最初に収められていたのがドビュッシーの「月の光」でした。演奏していたのはワイセンベルク。先日貼った「月の光」を演奏していた人ですね。
こんなにきれいな曲が世の中にあるんだと思いました。そのテープをもらってからしばらくは何度も何度も巻き戻してはワイセンベルクの弾く「月の光」を聴いていました。
しばらくして「月の光」の収められたいくつかのCDを買いました。でも、買ったのはワイセンベルクではなくて、フランソワ、あるいはギーゼキング。ワイセンベルクは彼女の録音してくれたテープで満足してたんですね。今から考えればあまりいい音で録音されたものではなかったのですが。でも、僕にとってのドビュッシーの「月の光」は、彼女のプレゼントしてくれたテープに録音されたものでした。
それから月日が流れ、彼女と会うこともなくなったときのこと、その頃はあまりドビュッシーを聴かなくなっていて、バッハや、あるいはジャズを聴くようになっていたのですが、ある日、急にワイセンベルクの弾く「月の光」が無性に聴きたくなってテープを探したらどこにも見当たらないことに気づきました。どれだけ探したかわかりませんが、結局テープは出てきませんでした。他の、当時においてはもうどうでもよくなったようなテープはあふれるほどあったのにもかかわらず。
で、すぐにワイセンベルクのCDを買いました。でも、どこか僕の心にとどめていたものとは違っているように聴こえました。音はずっといいはずであるにもかかわらず。
それからさらに数年の歳月がたったある日、たまたま手にした、近隣の都市で行なわれる野外のライブコンサートのパンフレットに彼女の名前を発見しました。ピアノの演奏者として。もちろん彼女単独ではなくて、いろんなグループや演奏者の名前が並んでいる中にあったので、彼女がどういう形で演奏するのかはわかりません。もちろん同姓同名という可能性もあります。彼女はあまりにもありふれた名前でしたから。
でも、とりあえず行ってみようと思い、その日、都合をつけて仕事を早く切り上げてライブ会場に向かいました。到着したときには、すでにライブが始まっていました。
僕はステージから30mくらい離れた場所で彼女の出番を待ちました。すると一人の女性がそっとピアノに腰かけて演奏を始めました。外はもう暗くてステージのライトもそれほど明るくはありませんでしたが、すぐにそれが彼女だとわかりました。
彼女は結局2曲弾きました。1曲目のときはどこか放心状態だったので彼女が何を弾いたか覚えていません。
1曲目の演奏が終わり、ちょっと間を置いて彼女は2曲目を弾き始めました。
最初に出てきた音でその曲がなんであるかがわかりました。
ドビュッシーの「月の光」。
僕の耳に馴染んだあのカセットテープに録音されたワイセンベルクの「月の光」。
その日はあまり天気がよくなくて、彼女の弾く頃には細かい雨が降り始めていました。
“雨の中の庭”で聴いた「月の光」でした。
実はいまだにこの日のことが現実の出来事だったのか、自分でもはっきりしません。すべては夢だったのかもしれないと思うこともあります。
ただ、その会場への行き帰りの車の中で、買ったばかりのキャス・エリオットのCDを聴いていたことだけは覚えていて、ママキャスの歌を聴くとふとその日の光景が蘇ることがあります。
ところで、彼女は僕の聴いていた、クラシックではない音楽にはほとんど反応を示さなかったのですが、当時持っていた、あまりよくない音で録音された、この『スマイル』バージョンの「ワンダフル」がかかったときに、「きれいな曲」と反応して、ビーチボーイズの数ある曲の中でただひとつ気に入ってくれました。
『海辺の荷風』とは何の関係もない話でした。