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by hinaseno

小津安二郎の『早春』と『断腸亭日乗』(その6)


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改めて「正二」という名前のことに。小津の配役名の決め方を考えれば、これは絶対に次男ということになります。
ところが『早春』では、長男どころか「正二」の家族は一度も出てきません。もちろん家族を出す必要がないといえば、それまでなのですが、それならば「二」のつかない普通の名前を与えてもいいように思います。でも、あえて小津は兵隊から戻ってきた人間を次男として設定したんですね。
では、長男は。

おそらく長男は「正二」が学徒出陣で戦場に行く前に、すでに戦争で亡くなっていた。そしてどうやら彼の両親も戦争で亡くなっている。もしかしたら両親は蒲田の辺りに住んでいて昭和20年4月15日の空襲で亡くなったのかもしれません。『早春』が作られたのは、まだ戦争が終わって10年くらいしかたっていません。蒲田の辺りが激しい空襲にみまわれたことはまだ記憶に生々しく残っていたはず。

『麦秋』と『東京物語』では、家族の中でただひとり戦争で亡くなった「不在」の人間として描かれた「しょうじ」が、『早春』では生を与えられるかわりに、他の家族が「不在」、つまりすべて亡くなっているという設定。これがこの『早春』という映画の”説明されていない”最大のポイントではないかと思います。

実は映画の中で、「正二」の家族のだれかが生きているならば、彼らを登場させる場面があってもよかったんです。
それは、言うまでもなく三石への転勤を決めるとき。もし、彼に両親、あるいは兄弟がいれば、相談する場面、あるいは相談したことを示すような場面があってもよかったはず。例えば彼が三石へ行くことを決めた後で、会社の仲間か友人のだれかが「親は了解したのか?」と訊くとか。でも、彼が両親を含めた家族に転勤のことで相談したことを示すような部分は一切ありません。「正二」はただひとりで決めている。相談、あるいは遠く離れて暮らすようになった場合に気にかけなければならないような家族の存在はない。
やはり「正二」の家族は、おそらく戦争でみんな亡くなってしまっている。その家族の中には、おそらく「こういち」という名の兄もいた。

『早春』という映画は、「倦怠期を迎えた夫婦の危機」や「サラリーマンの悲哀」を描いた作品として語られがちなのですが(というよりもたぶんこの映画のことをきちんと語られているのは川本三郎さんの『銀幕の東京』くらいではないでしょうか。ウィキペディアでは『麦秋』以降の小津の作品で、この『早春』だけがいまだに「作成中」)、『早春』に挿入されている、もしかしたら映画とはあまり関係なさそうな話にも関わらず、深い重みを持っていると思われるのが、病に倒れて亡くなってしまう、「正二」の同期で入社した三浦の話。

三浦という「正二」の同期の人間のことは、この映画の冒頭の会社の同僚との会話で語られて、そのあとも要所要所で出てきます。最も印象的なのは、病で倒れて寝たきりになっている三浦を見舞いに行く約束を同僚にした直後に岸恵子から会社に電話がかかってきて彼女と会う約束をして「おれ、三浦のとこ行けなくなっちゃったよ」と言う場面。で、その晩、大森海岸近くの宿で一夜を過ごすことになるんですね。でも、妻には三浦のところに行って、「国からおっ母さん出て来ててな、泣かれちゃってさ。帰って来られないんだ」と嘘をつく。
小津としては映画のストーリーを考えるときに、もちろん不倫のことは先に決めていたでしょうから、その理由作りに苦心したのではないでしょうか。不倫の言い訳を一生懸命考えたんでしょうね。見え透いたものでもいけない。で、思いついたのが病で倒れた同期入社の存在。秋田から丸ビルで働くことを夢見て東京に出てきたにもかかわらず、肺を患って倒れてしまう一人のサラリーマン。

言うまでもなく、不倫の言い訳に使ったために罪の意識を持つことになるんですね。で、改めて三浦の見舞に行く。そこで秋田からやって来ていた三浦の母親に会い、親の子に対する思いを聴くことになる。しかし、その翌日、三浦は亡くなる。
三浦の葬式に行ったとき、その母親は東北弁で「正二」にこう言います。

「あれの兄もマニラで戦死してしまってンしなぁ、これで男の子はひっとりもいなくなってしまったんです......もう誰もわたしさ文句言ってくれねえンす......」

二人の息子を失った母の悲しみが語られます。
「正二」はおそらくこの日、三石に行くことを決心します(次に「正二」が写るのは引っ越しのための荷造りをする場面)。

『早春』の物語を進めているのは三浦の話なんですね。
葬式のときに三浦の母親が「正二」に語った、兵隊で戦死した兄がいる話も示唆的。「正二」と三浦には単なる同期入社というだけでなく、ともに戦争で兄を失っているという共通点があったのかもしれません。それが彼らを結びつけていた。

もうひとつ、この母親の言葉が彼に大きな決心をさせていることも見逃せないですね。「正二」自身、ずっと戦争を引きずっている。戦地に行っていろんな悲惨な出来事を経験したということだけでなく、戦争で兄や両親を失ったことの喪失感を抱き続けている。自分だけ生き残ったことへの罪悪感のようなものも抱き続けていたかもしれない。
でも、三浦の母親の悲しみの言葉を聴いて、おそらく親を失ったこの悲しみよりも子を失った親の悲しみの大きさを知る。それが彼を動かしたんでしょうね。

「正二」の家族はどのような構成だったんだろうかと考えて、思い浮かぶのは『生まれてはみたけれど』(昭和7年)の家族。東京の郊外にあった蒲田に引っ越してきた親子4人の家族。兄弟の上の良一は小学校5年生か6年生くらい。そして弟の啓二は小学校3年生か4年生くらい。弟の啓二役をしていた突貫小僧は当時8歳か9歳くらいですね。
『生まれてはみたけれど』の24年後に作られた『早春』の主人公の「正二」は32歳。年齢的にはぴったりですね。顔はかなり変わっていますが。
『生まれてはみたけれど』の啓二は、父親が会社の上司にぺこぺこしている姿を見て、えらいと思っていた父親に失望して自分は絶対にえらくなるぞと心に誓う。その啓二の24年後の姿。けんかをしたときに助けてくれた兄も両親も戦争で失っている。そして父親のサラリーマン姿に失望したのに、結局普通のサラリーマンになって毎朝混んだ電車に乗って会社に通っている。

小津が果たしてそこまで意識していたとは思いませんが、結果的に『早春』は、年齢的にも、生活していたであろう場所も、推測される家族構成も『生まれてはみたけれど』と似通っています。

小津は『生まれてはみたけれど』を作った直後の『キネマ旬報』(昭和8年1月11日号 『小津安二郎全発言』所収)のインタビューで、和田山滋とこんなやりとりをしています。

和田山「『生まれてはみたけれど』は各方面から評判になったのですが、ああした会社員物は、これからもお撮りになるのですが」
小津「毎年1本ずつくらい、会社員物をやってみたいと思います。事実、毎年1本は必ず作っています。その俳優も毎年同じ俳優を使い、家の構造やセットなども同じにこしらえて、そして年々の写真を比較してみると、いろんな点で面白いです。最初の会社員物では、まだまるで芝居の出来なかった突貫小僧が、今じゃずっと巧くなって来たなど、そんなことを知ることが出来て愉快です」


こうした小津の気持ちはその後もずっと持ち続けていたはずですから、結果的に『早春』は『生まれたはみたけれど』の子供たちが大人になってサラリーマンになった姿を描く形になったと。いや、もしかしたらはっきりとそれを意識して作ったのかもしれません。わかる人にはわかるだろうと。

ところで、『早春』の映画で三浦の母親役をしている女優。長岡輝子さんといいます。当時48歳。どうみても60過ぎにしか見えないのですが。亡くなった三浦の年齢が32歳ですから、実年齢的にはぎりぎりオーケーですね。
でも、この人の東北弁、何とも言えずいいんです。調べたらやはり東北の人。岩手県ですね。大瀧さんといっしょです。『東京物語』以降、小津はこの人を使い続けています。『東京物語』ではそれほど東北弁をしゃべっていませんでしたが。と言っても、ほんの二言三言。
この長岡輝子さん、今、ちょっと気になっています。

先程のセリフを言っているのはこの場面です。
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by hinaseno | 2013-04-24 10:17 | 小津の『早春』と三石 | Comments(0)