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by hinaseno
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「透明な哀しみ」を支えてくれたもの


 昨日、平川さんが現在朝日新聞に連載されているコラムのことを書きましたが、朝日新聞のコラムと言えば、昔、新聞を購読していた頃、たぶん日曜日の、やはり「be」のような別冊のものに、ほんの一時期(今調べたら、たった2ヶ月)だけ連載されたコラムがありました。切り取ってノートに貼ったものは今でも大事に持っています。

 書いたのは松本隆。
 はっぴいえんどのメンバーのひとりで、ドラムと曲の詞を担当していた人ですね。言うまでもなく、『ロング・バケイション』をはじめとして、大瀧さんの多くの曲の詞を書いています。もちろん松田聖子の数々の詞も松本さんが書かれています。

 その松本さんが朝日新聞の日曜版に1985年11月から12月にかけてコラムを連載されていたんですね。今からもう30年近く前になります。
 コラムのタイトルは「親友旧交」。松本さんと交流のあった歌手、音楽家について書かれたものです。全部で8回。最初が松田聖子。それから細野晴臣、筒美京平、ユーミン、南佳孝、斉藤由貴、そして大瀧詠一。で、最終回がチェッカーズのフミヤとCCBのヒデキ。
 言うまでもなく、僕としては大瀧さんのことが書かれる日がいつくるかいつくるかと待ち続けていたわけです(松本さんもきっと僕たちを待たせたと思います)。

 で、待望の”その日”がやってきます。コラムのタイトルは「待ってくれた大滝」。このコラムはのちに『成層圏紳士』と題された単行本に収録されます。すでに廃刊になっているみたいですね。ということなので、その日のコラムをここに全文引用しておきます。

 
大滝詠一について語ろうとすると、もう十数年のつきあいになるのに、彼のことを何も知らないような気がしてくる。そういえば彼から家族のこととか、身の回りの雑事について聞いたことが無い。仕事以外のプライベートなことに関して口が重いのかもしれない。
 一度だけ彼がぼくの家を訪ねてくれたことがある。
「今度作るアルバムは売れるものにしたいんだ。だから詞は松本に頼もうと思ってね」
「よろこんで協力させてもらうよ」
 後にミリオン・セラーになった「ア・ロング・ヴァケーション」は、こんな会話から生まれた。
 発売日も決まって、さあ制作に入ろうという時期に、僕の妹が心臓の発作で倒れた。ちょうど大平首相が倒れた翌日で、偶然にも同じ病院の隣の病室に入院した。
 僕は電話で大滝さんに事情を説明して、他の作詞家を探してくれないかと言った。
「いいよ、おれのアルバムなんていつでも出せるんだから。発売は半年延ばすから、ゆっくり看病してあげなよ。今度のは松本の詞じゃなきゃ意味が無いんだ。書けるようになるまで気長に待つさ」
「ありがとう」
 でも数日後、妹は息をひきとった。
 精神的なショックから立ち直るまで、三カ月ほどかかった。その間、彼は何も言わずに待ってくれた。
 あのアルバムの中の詞に人の心を打つ何かがあったとしたら、明るくポップなブルーのジャケットの裏に、透明な哀しみと、それを支えてくれた友情が流れていたからだと思う。
 数年後、『イーチ・タイム』を作ってから、二人の間の距離が開いて、彼は再び長いバケーションを楽しんでいるようだが、来年の春あたりに、突然電話してきて、「そろそろ何かやろうか」なんて言い出すような予感がしてる。

 いい話ですね。後で知った大瀧さんの当時の事情を考えれば、一刻でも早く、できればそのアルバムのジャケットや曲の内容からしても絶対に夏に出しておきたい(当初の発売予定は1980年7月28日。そう、大瀧さんの32歳の誕生日の日)と思っていたはず。でも、待たれたんですね、実際には半年以上(発売されたのは翌年の3月21日)。

 もしあのとき大瀧さんが他の作詞家に頼んでアルバムを予定通りに作られたとしたらどうなっていたんだろうと思うことがあります。きっとアルバムが売れたことは間違いないだろうと思います。でも、果たして僕が、いや他の多くの人たちが現在に至るまでずっと愛し続けることになるアルバムになっていたかどうかはわかりません。少なくとも僕は、そのポップなメロディ、サウンドとともに、あの松本さんの「透明な哀しみ」をたたえた詞がなければ、これほどに愛し続けることはなかったことだけは確かなことです。
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by hinaseno | 2013-01-20 10:19 | 雑記 | Comments(0)